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平成17年1月1日 第446号 P3 |
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○座談会 | P1 | 武家の古都・鎌倉 (1)
(2) (3) 大三輪龍彦/鈴木亘/高橋慎一朗 |
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○特集 | P4 | 広くて暖かだった縄文の海 松島義章 | |
○人と作品 | P5 | 吉田修一と「春、バーニーズで」 |
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座談会 武家の古都・鎌倉 (3) |
約〜KB … 左記のような表記がある画像は、クリックすると大きな画像が見られます。 |
◇多様な仏教の新しい運動が鎌倉で花開く |
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編集部 |
鎌倉では新仏教が中世の一つの様相としてあらわれてきますけれども、京都との関係で言うと、特徴的なことは何でしょうか。 |
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高橋 |
新しい仏教の動きは、京都ではなかなか受け入れられないということがありました。 その点、鎌倉のほうは、伝統的な寺院がもともとそんなに多くないわけですので、新しい試みが受け入れられやすい土壌は、その時代の鎌倉にあったと思うんです。 鎌倉時代の鎌倉では、多様な仏教の新しい運動がかなり受け入れられている。 一般に鎌倉と言うと、禅宗というイメージが非常に強いんですけれども、それだけではなくて、念仏・禅・律といったもの、それから後には一遍の時宗から法華、そういったものまでが全部、鎌倉で花開いていきますから、ある意味ではすごく活気に満ちた新しい町、そういう雰囲気があったのではないか。 決して禅宗一色の町ではなかったと思うんです。 なおかつ、鶴岡八幡宮のような旧仏教を受け入れる大きなセンターもありますので、時代が下がってくると、京都ですとか奈良のほうからも、例えば、醍醐寺の親玄とか、旧仏教の中心的な人物が自ら進んで関東のほうに来るということまで起こってくるわけなんです。 |
“何でもあり”の兼学性が鎌倉新仏教の特色 |
大三輪 |
私は、余りにも今まで鎌倉新仏教というのを強調し過ぎて、それがひとり歩きして間違っているんじゃないかという気が最近してきたんです。 実際に遺跡を掘ってみると鎌倉新仏教が検証できるようなものは出てこないんです。 建長寺の池でも、禅宗なのにこんなものがあるのというものもいっぱい出てくる。 それを解決するにはどういう考え方をしたらいいのか。 鎌倉の新しい仏教というのは兼学仏教、いわゆる何でもありでいかないと理解できないんじゃないかと思っているんです。 禅宗なら禅宗と言っているかもしれないけれども、兼学性を持っているのが鎌倉仏教の特徴じゃないか。 |
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高橋 |
最初に鎌倉の中で動きがあったのは、まず、念仏の聖たちで、その後ちょっと遅れて、それに乗っかるような形で律とか禅の人たちが入ってくる。 そして、それが全く別々の動きではなくて、一人の人間が律もやり、浄土もやりという形のお坊さんが、かなり当たり前に見られているところが大きな特徴なんだろうと思うんです。 従来の宗派史みたいな見方では割り切れないところが多いですし、さらに広げて言えば、神仏習合ですから、極楽寺の絵図を見ましても、熊野社などいろいろな神社が勧請されています。 山岳信仰的なものも含めて、かなりいろいろな動きが鎌倉の町の中であったと考えるべきだろうと思っています。 |
谷戸単位の、住み分けがない一種の雑居状態 |
編集部 |
宗教的空間としての中世の鎌倉ということではいかがでしょうか。 |
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高橋 |
江戸時代の城下町では、ここは武士の居住地、ここは町人、寺町は寺町で別の区分というふうに大きな住み分けがされますが、中世都市の場合はそういうことはまずない。 これが一つの特徴だと思うんですけれど、宗教的空間が独立して都市の中にあるのではなくて、お寺とかがある中に御家人屋敷も近くにあって、さらにその門前に職人の屋敷があるというような、一種の雑居とでも言えるような形が見られるんです。 特に鎌倉では、谷戸が一つの単位になっていることが大きな特徴だと思うんです。 一つの谷の中に有力な御家人、例えば安達氏などの屋敷があって、その背後に安達氏関係のお寺がつくられて、安達氏に縁のあるような職人たちが門前に住む。 一つの谷戸の世界とでも言うようなものが、あちこちにできてくる。 それが鎌倉の周縁部まで行かないんです。 そういうものが平場と山の間の谷につくられていた。 |
谷戸の世界を描いた浄光明寺絵図 |
編集部 |
谷戸の世界というのは、魅力的な見方ですね。 |
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高橋 | ||||||||
大三輪 |
一つの谷の中に寺の境内があり、武家地があって、民家らしい屋根がいくつも描かれているんです。 年代は建武元年(1334年)か2年。 円覚寺絵図と同じ、上杉重能の花押が書かれているんです。 ちょうど泉ケ谷[いずみがやつ]という谷一つが描かれている。 先年、お亡くなりになった石井進先生が言われているんですが、七切通しの中を描いた絵図はあれしかないよ、と。 絵図の中に「御中跡」というのがあるんですけれども、石井先生は、これは得宗が持っていた谷地[やち]であろうと。 鎌倉幕府最後の執権の北条守時の旧宅と考えられる「守時跡」というのも出てきます。
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◇2007年を世界遺産登録の目標に |
編集部 | ||||||
大三輪 |
日本ではすでに法隆寺の仏教建造物や白神山地とか、京都の文化財など、昨年は紀伊山地の霊場と参詣道など十二件がユネスコの世界遺産に登録されていますが、鎌倉は現在まで推薦されるに至っていません。 当初、鎌倉独自の特色となるのは、古来より三方を山稜に囲まれた要害の地と言われてきたことで、具体的に山稜部に残された切通し・切岸[きりぎし]を中心とした防衛遺構、つまり城塞都市として登録をしようという考えもあり、七切通しを含む九か所の考古学的調査などを実施しました。 こうした経過をへて、鎌倉市は最終的にいろいろな特徴を検証し、先ほども言いましたように、近世、近代にまで引き継がれているということで、「武家の古都・鎌倉」というキャッチフレーズが一番いいのではないかというところに落ちついたわけです。 もちろん、それまでの城塞都市というのを否定するものではないので、それも含めた、もっと大きなものにしようという考え方です。 ですから、これからは国史跡がどんどんふえていきます。 今年度は、きょうの話に出てきた荏柄天神社境内、それから忍性が雨乞いをしたという仏法寺跡、この二つが、史跡の申請をしています。 大仏殿は昨年度になりました。
これからも候補はメジロ押しになっていって、事務が追いつかないような状況です。 計画では、2007年の登録を目標にしています。 |
永福寺跡や遺跡を一般の人が常時見学できる施設を |
編集部 |
こうした鎌倉市の活動に対して、何かご提案はございませんか。 |
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鈴木 |
鎌倉には貴重な遺跡がたくさんあり、そこを調査されて非常に成果が上がっている。 世界遺産として考える場合は、例えば永福寺でしたら、少なくとも池の整備、二階堂などの三堂ぐらいは、整備はできると思うんです。 それで一般の市民に開放することを考えていかなければいけないんじゃないか。 それがやはり世界遺産にもつながっていくんじゃないかと思うんです。 それから御成[おなり]小学校の調査で明らかになった今小路西遺跡については、非常に立派な成果が出たんですけれども、あそこに行ってみると、何もわからないんですね。 鎌倉後期の武家の居館跡とか、庶民の街区とかがありますね。 武家や庶民の生活空間を理解するには、御成小学校の校庭の遺構は抜群にいいですね。 例えば御成小学校に行って、どこかに模型でも何でもいいですから、何か展示されたものがあれば、「ああ、ここにはこういうものがあるのか」と。 現在は校庭なんだけれども、その下に眠っている遺跡というものが視覚的にわかるようなものがやはり欲しい。 財政的にも大変だと思うんですけれども、やはり考えていかなきゃいけないかなと思うんです。 調査した場所の整備というものが、課題として残っているんじゃないかと思うんですね。 それから当然それに伴う遺物があるんです。 非常に貴重な遺物ですね。 |
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編集部 |
出土品も、青磁の大きいものがありましたね。 |
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鈴木 |
そういうものを展示する場所も必要ですね。 |
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高橋 |
昨年秋に、鎌倉国宝館で「鎌倉考古風景」という展示をやっておられ、それを拝見したんですけれど、ああいったものが常時見られるような施設があれば、非常にありがたいなと思うとともに、市民の方々にとっても、そういう機会はぜひ設けてほしいなという気がいたします。 |
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大三輪 |
とにかく世界遺産の登録は、核になる部分が国内法で守られていることが必要なんです。 だから、いろんなネックはある。 例えば、若宮大路の場合に、核心地域の周囲にバファゾーン(緩衝地帯)を設けて、利用に一定の制限をする必要がありますので、それをどこまでとるかとか、細かい詰めの問題はあります。 けれども、文化庁のほうもやっと乗り気になってくれましたし、そういう方向で進んでいくと思います。 |
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編集部 |
きょうはどうもありがとうございました。 |
大三輪龍彦 (おおみわ たつひこ) |
1942年鎌倉生まれ。 著書『中世鎌倉の発掘』有隣堂(現在品切・重版未定)。 |
鈴木亘 (すずき わたる) |
1937年横浜生まれ。 論文『荏柄天神社の社殿建築 ※』ほか。 |
※鶴岡八幡宮発行 季刊『悠久』第98号(平成16年7月刊行)に掲載。 |
高橋慎一朗 (たかはし しんいちろう) |
1964年小田原生まれ。 |
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