■『有鄰』最新号 | ■『有鄰』バックナンバーインデックス | ■『有鄰』のご紹介(有隣堂出版目録) |
平成17年1月1日 第446号 P1 |
|
○座談会 | P1 | 武家の古都・鎌倉 (1) (2)
(3) 大三輪龍彦/鈴木亘/高橋慎一朗 |
|
○特集 | P4 | 広くて暖かだった縄文の海 松島義章 | |
○人と作品 | P5 | 吉田修一と「春、バーニーズで」 |
|
座談会 武家の古都・鎌倉 (1)
|
|
約〜KB … 左記のような表記がある画像は、クリックすると大きな画像が見られます。 |
|
||||||||
左から、鈴木亘氏・大三輪龍彦氏・高橋慎一朗氏 |
はじめに |
||
編集部 |
鎌倉は奈良・京都と並んで日本の古都に数えられています。 これは治承4年(1180年)に伊豆で挙兵した源頼朝が鎌倉に入り、日本最初の武家政権の根拠地に定めたからで、鎌倉には京都とは異なる独自の武家文化が花開きました。 本日は、日本の歴史の中で、中世都市・鎌倉はどのような位置を占め、どのような文化が育っていったかについてご紹介いただきたいと思います。 1992年にわが国が世界遺産条約を批准し、鎌倉は文化庁の世界遺産暫定リストに掲載されました。 現在、鎌倉市は、ユネスコの世界遺産登録に向けて「武家の古都」という新たな理念を示しております。 その具体的な事柄についてもお話しいただきたいと思います。 大三輪龍彦先生は、鎌倉市文化財専門委員会会長で、鶴見大学教授、鎌倉の名刹・浄光明寺のご住職でもいらっしゃいます。 ご専攻は中世考古学で、若いころから、鎌倉市内各地の遺跡の発掘調査に携わっておられます。 鈴木亘先生は、鎌倉市文化財専門委員でいらっしゃいます。 建築史がご専攻で、鎌倉市域では、頼朝が創建した永福寺[ようふくじ]遺跡などの他、平成13年には荏柄[えがら]天神社本殿の調査などを担当されました。 高橋慎一朗先生は、東京大学史料編纂所助教授で、日本中世史をご専攻でいらっしゃいます。 論文集『中世の都市と武士』では、都市鎌倉、あるいは武士と寺院のあり方について、興味深いご意見を発表していらっしゃいます。 |
◇日本史上最も長い武家政治の始まった場所 |
||||||||
編集部 |
中世における鎌倉はどのように位置づけられるんでしょうか。 |
|||||||
大三輪 |
古都というと皇居があったところというイメージがありますが、鎌倉には皇居はないですね。 では京都や奈良と違うところはどこか。 文字が出現してからの日本の歴史の中で一番長いのが武家政治の時代なんです。 江戸幕府が崩壊するまで約700年続いた武家政治が始まった場所が鎌倉であるということで、それを世界遺産登録の理念に位置づけようというわけです。 鎌倉時代だけではなく、近世・近代まで含めた形での武家の都であるという考え方をしています。 従来余り言われてないことなんですが、鎌倉はどこの古都かということになると、やはり江戸に対しての古都ではないか。 つまり、徳川氏自身が源氏ということで、その源氏の発祥の地の鎌倉を古都として非常に大事にする。
近世になると石高制が普通なんですが、鎌倉だけは中世的な貫高[かんだか]制を残し、天領にして直轄地として保護した。 それは武家政権発祥の地だからだと思うんです。 |
東国に新たな中心ができ、京都を媒介せずに、物が動く |
||
大三輪 |
もう一つ、古代は、文化的な面で西と東が非常にはっきりと分かれています。 それは京都や奈良があったからなんです。 ところが、鎌倉に準首都とでもいうべきものができると、京都を通り越して、西の文化が入ってくるようになります。
東の文化も西に行くということで、全国規模の文化の交流というものができがっていったんではないかと思っています。 |
|
高橋 |
京都を媒介としない形で物が動くようになるのは非常に大きいことだと思うんです。 鎌倉以前は、物は一度京都に集まって、それから地方に渡っていく形が多いんですが、鎌倉という別の中心ができたことによって、例えば九州のほうから直接鎌倉へ大量に入ってきたものが京都へ逆輸入されるという形が、新しい動きとして出てくる。
それは鎌倉という場所に新しい幕府ができたことが大きな要因だと思います。 |
|
編集部 |
奥州の平泉と比べてみると、どうですか。 |
|
大三輪 |
平泉は独自の文化を持っていて、時代が少し古い。 中国の青磁だけをとってみても、平泉には中国の越州窯[えっしゅうよう]が出てきますが、鎌倉からは出ない。
九州にはもちろん越州窯があるということで、物が入ったルートは、太平洋側か日本海側かというのが大きな問題ですが、平泉は文治5年(1189年)に滅んでしまうので、単純に比較するわけにはいきませんね。 |
|
編集部 |
江戸時代の人々は鎌倉をどう思っていたのでしょうか。 |
|
高橋 |
鎌倉が武家の古都として意識されていたということで一番象徴的なのは、『仮名手本忠臣蔵』の大序の場面ですね。 忠臣蔵を『太平記』になぞらえながら、鶴岡八幡宮を舞台にして始まる。
その辺にも江戸時代の人々の鎌倉に対する意識があらわれている気がします。 |
若宮大路を軸に13世紀中ごろ以降都市整備が進む |
||
編集部 |
鎌倉は、どのような形で都市づくりがされていったのでしょうか。 |
|
大三輪 |
文献の上からいけば、頼朝が若宮大路をつくったというのは『吾妻鏡』に出てくるわけで、それが後の都市整備のときの一つの軸になっていることは間違いない。 それを利用しながら、13世紀の中ごろ以降に都市整備が進んだと考えていいんじゃないかと思うんです。 一般には、頼朝イコール鎌倉というイメージがありますけれども、実際に発掘してみると、頼朝時代のものはほとんど出てこない。 それには、それほど都市整備をしていなかったから遺構がないという考え方と、後世の都市整備の段階で壊されてなくなってしまったという二つの可能性があります。 強いて頼朝時代ということで挙げれば、鶴岡八幡宮の境内の一部の埋蔵文化財、あるいは、街道を横切る形で出てくる、非常に大きな溝があります。
例えば大倉(蔵)あたりで、後の六浦大道を遮断するように、何箇所か大きな溝が出てくる。 最近では、宝戒寺の裏で、割合古いと思われる溝が出てきている。
これぐらいは頼朝時代までさかのぼっていいのかもしれませんが、明確に頼朝の時代だという遺構はほとんどない。 13世紀の中ごろから14世紀という時代に非常に鎌倉が栄える、ほとんどがその時期に関する遺跡や遺構であると言えると思うんです。 |
承久の乱に勝利し朝廷に対して圧倒的優位に立つ |
||
編集部 |
鎌倉は要害の地と言われますが、切通しを造るのも13世紀中ごろですか。 |
|
大三輪 |
承久の乱(1221年)が鎌倉方の一方的な勝利に終わって、天皇が臣下の軍に負けるという前代未聞の出来事が起きるわけです。 これによって、鎌倉幕府が朝廷に対して圧倒的に優位に立つという結果が生まれます。 すると、それまである意味では東国の中で軍事的な政権としてあった鎌倉幕府が、さらに西国のほうまでも視野に入れた大きな権力に発展していく。 公権力としての機能が格段に大きくなります。 それまでの天皇と将軍の二元支配みたいなものが、武家による一元支配の形に変わり、鎌倉は首都としての機能を持たなければならなくなる。 すると、幕府のもとには、全国から訴訟のために集まる人や、行政の仕事をする人、商人や職人たちも大量に流入するという動きが出てくる。 それまでは「天然の要害」と言われていたわけですが、それでは人が入って来られませんから政治都市としては困る。 しかし、片方では武家政権は明らかに軍事政権ですから、要害性を壊さないで、しかも、人が出入りできるものは何だろうか。
それともう一つは、谷が多いところに平地を確保したいということで、垂直な崖と尾根を掘り割った切通しというものをつくっていったわけです。 |
|
高橋 |
北条泰時の時代が都市改造の出発点というか、大きな画期になるわけですね。 |
◇鶴岡八幡宮を最重要視した頼朝 |
|
|
高橋 | ご先祖を祭るために移したというのが『吾妻鏡』にも出てきますし、何しろ鎌倉に入って一週間で移すわけですから、何よりもこれを重視したことがよくわかるんじゃないかと思います。 |
|
大三輪 |
頼朝は何かいっぱいやっていると思われるんだけど、鶴岡八幡宮を建てた後は、自分の屋敷をつくって、それから勝長寿院[しょうちょうじゅいん]と永福寺をつくった。
これだけです。 |
若宮大路は西に対する最終防衛線 |
||
高橋 |
頼朝の時代は鶴岡八幡宮と御所、永福寺というように、若宮大路の東側のほうが中心になっていると見てもいいんでしょうか。 |
|
大三輪 |
そうだと思いますね。 若宮大路は、私の考えでは、軍事政権としては最終防衛線。 実際に掘ってみても、東側のほうがもともと土地が高いんです。
東側に中枢機能を集中して、若宮大路を隔てて西に向いている。 仮想敵が西だったと思うんです。 |
|
高橋 |
若宮大路が防衛線ですか。 |
|
大三輪 |
最終のね。 もっと後の13世紀中ごろに切通しが七つできますね。 そのうちの五つは若宮大路の西側で、東側にあるのは名越[なごえ]と朝比奈だけです。
ですから西というものをかなり意識していたと思う。 |
|
高橋 |
後に御所が移るのもやはり若宮大路の東側ですね。 大路を越えて西側には移らない。 |
つづく |