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平成17年3月10日 第448号 P2 |
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○座談会 | P1 | 中華料理と横浜中華街 (1)
(2) (3) /林康弘/伊藤泉美/藤田昌司/松信裕 |
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○特集 | P4 | 伝えたい日本古典文学の魅力 ツベタナ・クリステワ | |
○人と作品 | P5 | 福井晴敏と『6ステイン』 |
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座談会 中華料理と横浜中華街 (2) |
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◇香港で劇的に進化し薄味になった広東料理 |
藤田 | 日本で一番普及しているのは広東料理ですか。 |
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林 |
戦前からの日本と中国とのかかわりの中で、大連など北のほうに日本人がたくさんいたので、向こうの町で売っている焼き餃子や水餃子などが最初に日本に入ってきたのではないかと思うんです。 それは言ってみればファーストフードですね。 それがディナーテーブルに乗るのは、ホテル文化であって、中華街じゃないんです。
その間に、広東料理は香港で劇的に進化します。 今、広東料理はシーフードだと思われていますが、本来は四つ足のものが多いんです。 この段階では、広東料理は日本にはまだ本格的には入っていないんです。 香港のおかげでシーフード化し、ホテル料理になり、味が薄い料理になった。 横浜の中華街はもともと広東の人が多いんですが、昔の広東料理と今の広東料理は全然違うんです。 今の広東料理は香港流の広東料理なんです。
料理は常にそうですが、富が集まっているところが一番進化しやすい。 上の人が時々庶民的なものを遊んで楽しむことはありますが、基本的に上からおりてくるほうが多いですね。
もちろん庶民のほうではおそばとかワンタン麺とかありますけど。 |
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藤田 |
屋台みたいなものですか。 |
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林 |
香港の大衆料理のベースは[ダイパイドン]です。 一方では会食とか接待があります。 活きのいいレアなものや、値段が張るものとか、味で言うと、材料の鮮度が出るような調理の仕方ですね。 今、広東料理が一番おいしくなっている。 というのは、広東料理は保存がきかない材料ばかりなので、材料のよしあしがすべてになってくる。 その意味では日本料理に非常に似ていますね。
日本料理では魚を生で食べますから。 淡い味の中で素材のよしあしを競うという、非常にぜいたくな食べ方になっています。 |
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四川料理は殺人的なしびれる辛さ |
松信 | 本場の四川料理は、日本で食べるよりも猛烈に辛い、激辛だそうですね。 |
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譚 | 私は本物なんかとても食べられません。 一回だけ四川省で食べましたけれど、お料理が出ると、においだけで涙が出てくるんです。 |
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林 |
僕は大好きです。 四川の中でも、重慶と成都では味が全然違うんです。 重慶では「麻辣[マーラー]。」と言います。 「麻[マー]」というのは、胡椒と、四川でとれる大きな山椒の辛さ、「辣[ラー]」は唐辛子の辛さです。
これが一緒になった味が「麻辣」なんです。 |
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譚 |
しびれてきちゃう。 びりびりくる胡椒の強さ。 |
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林 |
おいしいんですが、殺人的に辛い。 成都に行くと、今度は辣だけになるんです。 |
最初の麻婆豆腐は小さな店の有り合わせの料理 |
藤田 | 日本でもよく知られている麻婆[マーボー]豆腐も四川料理ですね。 つくられたいきさつがおもしろいですね。 |
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譚 |
これはいろんな方から聞いた話で、もしかしたら、違うストーリーもあるかと思うんですが、清朝時代まで、都市はどこも外敵から住民を守るために城壁で囲まれていた。 四川省の成都にも城壁があって、住民は全員その中に住んでいた。 「朝鐘夕鼓[ちょうしょうせきこ]」と言って、朝、カンカンと鐘が鳴ると同時に門が開き、お百姓さんが城外に出る。 一日野良仕事をして、夕方になるとドンドンと櫓の上で太鼓が鳴って、それを合図に仕事を終えて戻ってくる。 夜は必ず城壁の門を閉めて、そこで安全に寝るという時代でした。 城外に出た橋のたもとに、陳さんというおばさんが一膳飯屋を開いていた。 私の想像では、多分、小さい粗末な店で、お百姓さんや旅人がちょっと寄って簡単に食べるような店だったんだろうと。 そこへ常連さんが行くと、陳おばさんが残り物を合わせて適当につくった料理があった。 その料理は野菜くずだとか、肉だとか、いろんな余り物を全部合わせた炒めものだった。
中国では油はすごく貴重で、非常に値段の高いものでしたから、粗末な店で使う油は使い古しの油になってしまう。 油は古くなると力がないから、だれた料理になる。
それを補うために火力を極端に強くして、パオ(炮)という、強烈に強い火で、たっぷりの油を使って炒める。 しかも、唐辛子とか胡椒とか、いろいろな香辛料をふんだんに入れて、お客に出した。 |
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藤田 |
豆腐も入れた。 |
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譚 |
そうです。 食べた客に「これはうまい。 何という料理。」と聞かれて、「別に名前はないわよ。 今適当につくったものだから。」というのを繰り返している間に、いつしか客が名前も付けた。
「麻[マー]」はしびれたり、辛いというのと同時に、アバタがあるという意味なんです。 アバタのある陳おばさんがつくった豆腐の料理ということで「麻婆豆腐」と名前をつけた。
それが評判になって、城壁の中でもつくり、ほかの四川の土地でもつくるようになったというのが比較的標準的なお話です。 |
◇日本で最初の中華料理は普茶料理 |
藤田 |
中華料理が日本に最初に入ってきたのはいつごろなんですか。 |
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伊藤 | 一番早いのは恐らく長崎の卓袱[しっぽく]料理だと思うんですが、ただ、そこまでさかのぼってしまいますと、近代につながるかどうか。 |
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松信 |
今は長崎の郷土料理ですね。 |
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伊藤 |
ただ、卓袱料理は中華料理だけじゃなくて、いろいろな要素も入っていると思うんです。 |
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林 |
京都の黄檗宗[おうばくしゅう]万福寺の普茶料理は間違いなく中国料理ですね。 明の隠元禅師が伝えた精進料理です。 あそこで使われている料理の名前は全部中国名です。
だから、日本の中国料理をさかのぼるなら、そこから始めなくちゃいけないかなと思うんです。 |
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松信 |
普茶料理ではメニューをツァイダン(菜単)と言うんですね。 |
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林 |
今でもツァイダンと言いますからね。 中国料理はシルクロードを渡ってイタリアに行って、イタリアからフランスに行ったのが今のフレンチですし、食文化としては、やはり日本にも渡っているんだろう。 そういう意味では、箸を使って食べることも、しょう油にしても、日本料理のルーツの一つだということは言えると思います。 |
長崎から中国に輸出していたフカヒレやナマコ |
伊藤 | 譚先生がご本に書かれているように、精進料理は中国と日本ではかなり内容が違うと思います。 ただ、ルーツは恐らく中国でしょうか。 |
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譚 |
多分そうですね。 いつから中華料理を規定するか。 『中華料理四千年』でも、中華料理はいつから「中華料理」と呼ぶんだろうと悩んだぐらいなんです。 今おっしゃったおしょう油のもとは、肉醤という肉のどろどろのもので、それが発酵技術が入って醸造されたり、ヨーグルトがシルクロードを通って入ってきたり、インドからお豆腐が入ってきたりして、中華料理自体もどんどん進化している。 卓袱料理は、一番古くを考えると、16世紀のマルコ・ポーロの時代に、中国との交易をする日本人が大坂からも行っていたという話があるんですが、その頃に若干入ってきたかもしれないですね。
それから明、清の初めごろに、長崎にたくさん船が来るようになって、どんどん入ることになりますね。 |
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林 |
長崎奉行の輸出品の一つにフカヒレがあったんです。 日本が中国に輸出していた。 おもしろいですね。 |
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伊藤 |
ナマコなど、俵物と言われる海産物ですね。 |
◇横浜には明治20年代に立派なレストランが誕生 |
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藤田 |
横浜に中華街ができたのはいつ頃なんですか。 |
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伊藤 |
そもそも中国の人たちが横浜に来たのは、ここが開港した港だったからで、それが今から大体百四十数年前です。 その当時は、中華料理屋さんはないと思われるんですが、最初に裕福な人が来ます。 安政の五カ国条約には、当時の清国は入っていないんですが、銀行の買弁[ばいべん]とか、その人たちは一族郎党の中にお手伝いさんとかコックさんもいて、その人たちを連れてきたり、あるいは、外国商館のイギリス人とか、フランス人のほとんどは香港、上海から来ますので、そのときに中国人のコックさんを連れてきています。 今のような中華料理店街になったのは、日本の高度成長期以降ですね。 |
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林 | そうです。 |
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伊藤 |
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林 | 萬珍樓は今と場所がちょっと違う。 萬珍樓は昔は金陵の場所だった。 |
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伊藤 |
震災後になると、安楽園とか金陵、一楽ですね。 |
初期の中華街のお客さんは欧米人と中国人の使用人 |
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伊藤 |
中華料理のことを考える場合、食材の問題があると思うんです。 特に日本では幕末・明治ころは野菜は何とかなったと思うんですが、豚肉や牛肉は手に入らない。 それをどうしたか。 最初は、生きた豚を船で一緒に連れてきた。 外国人居留地の中でホテルを営業をしていた人は、自分の庭で飼っていたという話がありますが、居留地は狭いので、なかなか養豚とかできませんね。 それで日本人に頼むんです。 その後、高座豚とか、神奈川の横浜近郊の農村で豚とかがだんだん手に入るようになるんです。 横浜浮世絵で一番最初に豚が描かれたのは、万延元年(1860年)の本町通りの絵で、中国人が黒っぽい豚を連れているんです。 |
1930年代のメニューには李鴻章うま煮も |
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伊藤 | 最初のところは西洋料理みたいで、海老サラダとか書いてありますね。 |
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林 |
大体今もあるものですね。 芙蓉蟹[フーヨーハイ](蟹玉)、鯉やフカヒレもある。 李鴻章チャプスイも。 |
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伊藤 |
「李鴻章什碎」の横に五目うま煮と書いてあるんですよ。 |
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譚 |
チャプスイは日本でははやらなかったんですね。 アメリカで最初にできた中華料理はチャプスイだそうです。 |
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林 |
アメリカでは今でもそう言っていますね。 |
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譚 |
ええ。 あれは日本の五目炒めなんですか。 |
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林 |
そうです。 雑炊[ぞうすい]と書く。 これは日本語ですね。 雑炊を広東語で読むと、チャプスイになるんですが、中国では違う字を使います。 |
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いろいろな字が使われるサンマーメン |
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伊藤 |
サンマーメンは、横浜が発祥の地らしいんです。 |
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林 |
うちが発祥なんです。 |
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伊藤 |
それでどういう漢字を書くと思います? |
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林 |
三つの具でしょう。 |
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伊藤 |
いいえ。 いくつかあるんですが、三番目のおばさんがつくったから三媽[サンマー]というとか、港で生まれたからというのもあるんです。 |
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林 |
それがどうしてサンマーなんですか。 |
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伊藤 |
シェンは生まれる、碼頭[マートウ]が埠頭のことなので、生碼麺[シェンマーミェン]。 それが訛って「サンマーメン」。 横浜の波止場で、安くて労働者が食べられるようにつくったのかなと思ったんです。 |
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林 | サンマーというのは、三つの具が入っているということを言うんだけど、広東の人は音が同じで字を変えちゃう。 |
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伊藤 |
生碼だと、横浜生まれということにぴったりじゃないですか。 メニューの最初には、聘珍樓の三大特徴として、「最古の歴史、最新の設備、最大の信用。」とあります。 |
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林 | 余り変わってない。 |
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伊藤 | そのころの外観と内部の写真もあります。 |
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林 | これはびっくりした。 今の内装とそっくりなんですよ。 このことを僕は知らなかったのに昔と同じものをつくってしまったわけで……。 |
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松信 | 立派な建物ですね。 この頃からすでに老舗だったんでしょうね。 |
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譚 | 『中華料理四千年』をご覧になって、「横浜で一番おいしいお店を紹介して。」という方がたくさんいらっしゃるんです。
ところが、私は今横浜に住んでいないものですから、なかなかわからない。 そこでお勧めするのが老舗の聘珍樓さんなんです。 (笑) |
つづく |