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第76回 2009年6月18日 |
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〜ここではない何処かへ〜 | |||||||||
村上春樹の最新作『1Q84』が社会現象となって飛ぶように売れている今日この頃であるが、『1Q84』以外にもすばらしい小説はたくさんあるのですよ、とお客様の耳元で囁きたくなるほど良い新刊が、最近は実に多い。 夏を目前に控えつつも鬱陶しい梅雨のこの時季、今回は、読者を「ここではない何処か」へ連れ去ってくれるような3冊をご紹介しよう。 |
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まず初めに、カズオ・イシグロの『夜想曲集』を。 3年前『わたしを離さないで』が話題になった著者の初の短編集だ。 訳者あとがきに書かれているが、本書は5楽章からなる一つの交響曲、もしくは5つの曲を収録したアルバムのようなものだと思ってほしい、と著者は望んでいるとのこと。 著者の意図どおり、哀愁を感じさせる夫婦ものからドタバタ喜劇まで、まったく異なった趣が各章で味わえる。 これから自分にも訪れるであろう人生の黄昏に思いを馳せたり、追い詰められた人間の愚行に笑いを噛み殺したり。 読み終わった後に残るのは、やはり人間は愛しい生き物だ、という思いだ。 ベネチア・ロンドン・ビバリーヒルズなどを舞台に、「音楽」にまつわる人間模様が描かれているこの短編集、何より素晴らしいのは登場人物たちの心の揺れが精細に描かれていて、読んでいる間、その場の空気までも感じることができることだ。 読む者を世界各地へ連れ去ってくれる1冊と言えるだろう。 |
夜想曲集 カズオ・イシグロ:著 早川書房 1,680円 (5%税込) |
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次に、梨木香歩『f植物園の巣穴』を。 『家守綺譚』で梨木香歩のファンになった読者には、待ってました!と声をあげんばかりに嬉しい新刊が発売になった。 舞台はおそらく明治時代の頃の日本。 植物園で働く主人公の男が、ある日、椋の木の穴に落ちると、そこは夢と現実、過去と現在、人間と動物が入り混じった不思議な世界だった…。 まるで日本版『不思議の国のアリス』のような話なのだが、アリスよりももう少し不気味で摩訶不思議な世界が本書では繰り広げられている。 どこまでが現実の出来事でどこまでが現在の出来事なのか読んでいるうちに迷路に入ったように分からなくなるが、その分からなさ加減を愉しむのが、本書の醍醐味だ。 読む者を異世界に連れ去ってくれる1冊と言えるだろう。 |
f植物園の巣穴 梨木香歩:著 朝日新聞出版 1,470円 (5%税込) |
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最後に、村田喜代子『ドンナ・マサヨの悪魔』を。 「本の泉」第72回でも同著者の『あなたと共に逝きましょう』という作品を紹介したが、本書でも著者は生命の神秘についてペンを揮っている。 結婚生活30年のマサヨ夫婦のやりとりで本書は幕を開けるが、ある日イタリアに留学している娘から、妊娠したので相手のイタリア人青年と結婚して日本に戻ってくる、と通知がやってくる。 娘夫婦はマサヨの家に居候することになる。 新しい生活にも慣れてきた頃、眠っている娘のお腹の中から、「ばあさん」「愚かな老女よ」とマサヨに語りかける悪魔のような声が聞こえてくるようになる。 ここまでのあらすじの説明を読んだら、まるでホラー小説のように思われるかもしれないが、悪魔がマサヨに語る内容は、これまで自分が何万回も生まれ変わってきた世界についての話なのである。 この、悪魔の語りの部分だけでも読み応えじゅうぶんで、「輪廻」というものの存在を信じさせる力を持っている。 悪魔のセリフを読み返しながら思い出したのは、 「われらかつて魚なりし頃かたらひし藻の蔭に似るゆふぐれ来たる」 という、女性歌人・水原紫苑の短歌だ。 読む者を生まれる前の世界に連れ去ってくれる、スケールの大きな1冊と言えるだろう。 |
ドンナ・マサヨの悪魔 村田喜代子:著 文藝春秋 1,600円 (5%税込) |
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文・読書推進委員 加藤泉
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