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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成11年7月10日  第380号  P1

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 現代読書事情 (1) (2) (3)
P4 ○横浜・龍華寺で発見された天平の乾漆像  水野敬三郎
P5 ○人と作品  鈴木明と『新「南京大虐殺」のまぼろし』        藤田昌司

 座談会

現代読書事情 (1)

   詩 人   長田 弘  
  エッセイスト   岸本 葉子  
  東京大学大学院教育学研究科助手   杉本 卓  
    有隣堂社長     篠崎 孝子  
              

はじめに

篠崎 本は、人によってさまざまな目的で、また人生のさまざまな場面で読まれ、日常の生活では味わえない体験をし、人生をより豊かなものにしてくれます。

しかし、近年のテレビゲーム、コンピュータなど、電子メディアの発達で、人が活字に触れる機会はどんどん減っています。このような状況は、日本の若者や子どもたちの本離れ現象に拍車をかけ、ひいてはいろいろ深刻な社会現象を引き起こす要因になっているともいわれます。

座談会出席者
左から杉本卓氏・長田弘氏・岸本葉子さんと篠崎孝子
本日は、現代社会で本が置かれている状況、読書と電子メディア、読書と人間との関係等々についてお話をいただければと存じます。ご出席をいただきました長田弘先生は、詩人としてご活躍ですが、本と読書についてのエッセーや子どもの本についての対談集など、多くのご著書がございます。また『本という不思議』(みすず書房)など、幅広い読書家としても知られております。

岸本葉子先生はエッセイストとしてご活躍です。読書についての『本はいつでも友だちだった』(ポプラ社)ほか、多数のご著書がございます。また雑誌『本の話』(文藝春秋)で二年間、鼎談形式の書評をされました。

杉本卓先生は東京大学大学院教育学研究科助手で、言語を使った活動と、人間の学習とメディアとのかかわり方などについて研究されています。また、アメリカで出版された、バリー・サンダースの『本が死ぬところ暴力が生まれる』(新曜社)を昨年、翻訳されました。

「本を読むことはかっこいい」という美意識の消滅

長田 子どもや若い人たちがどうして本を読まなくなったかと、よく言われる。でもわれわれのような年代の人間が"本を読むのは楽しい"と言ってみても始まらないような気がするんです。

本を読まなくなったのは当然だという考えを僕は持っている。それはみんなが言うようにパソコンやテレビゲームのような電子メディアの発達で、活字に触れる機会が少なくなったからではない。本がつまらないからです。つまりテレビゲームやパソコンをやるのは、かっこいいし、面白い。本を持つことは、子どもたちにとってかっこよくないんです。街角で大学生のかばんの中身をあけたら、携帯電話やCDだと思う。これはかっこいいものなんです。つまり、今一番問題なのは、本が面白いか否かより、本を持つこと、読むことがかっこいいと感じられない状態になっていることです。

例えば、携帯電話の話の中身は何にもない。話の中身に重要性があるのではなく、携帯を持っているかっこよさが重要なわけです。

本の場合、どうか。例えば一九六○年代ぐらいまでの映画などを見ると、若者がブックバンドで本を持ち歩いている。本を見せているわけです。今、日本のドラマで本を持って歩いているやつはいない。

明治期の黒田清輝の代表作は「読書」です。本を読んでいる女が絵の一つのテーマになっている。つまり、読書がヌードを描くのと同じようにかっこよかったからです。

ところが今は本を読んでいる絵なんてない。読書がかっこいいという美意識がある社会では本が読まれるんです。今、日本の場合は、本をどうやって読ませるかじゃなくて、本を読むことが、子どもたちにとっても、かっこいいという意識が消滅したことが問題です。

だから、僕にとっては、本は非常に楽しかったと言ってみても始まらないような気がする。そのときはそれが、かっこよかったから、僕もきっと読んだんでしょう。(笑)

 

  読書離れは本の中身が問題ではない

長田 それは今でもそうですね。皆さんが古本屋さんの汚い本を買わないで、きれいな本を買うのは意味があるわけです。かっこいいからです。

本の場合には、本の中身について論じることは疑問だと思う。本がきれいかどうかが重要な問題であって、それだから、昔から本のデザインは非常に重要視されてきたんだし、本屋さんの雰囲気は非常に重要なんです。ほかの分野に愛書家みたいな言葉がないですね。かばん好きというのはあっても、愛かばん家というのはない。

書店も、出版社も、かっこいい本とかきれいな本とか、日本では今、全然論じられていない。装丁がきれいなのがきれいな本だと勝手に思っている。結局、本という一つの有機体が、かっこいい、美しい、あるいは自分のそばにあるものだと思わないことのほうが今は問題だと思います。

本は今、戦前戦後に比べても一番安いですね。一九六○年代初めは、大学出の初任給は二万円くらい程度。レコードは廉価版が出たといっても千円。本は岩波文庫の星一つで勘定してみれば、星の数とそば代とでは、昔はそばのほうが安かったけど、今は本が安くなっている。それでいて本が読まれないというのはかっこよくないからです。

 

  隠れてこっそり読むかっこよさもあった

岸本 私の子どものころはどこのうちにも本が割にあって、食べるほうを我慢して本をというほど、本に対してハングリーでもない。大学時代は、本を持っていないと、ちょっとかっこ悪いみたいなところが逆にありましたね。

篠崎 長田先生のおっしゃる本イコールかっこよさみたいなものが、まだ残っていたんでしょうか。

岸本 私より少し前の人は学生だったら『疎外論』を読まなければとかあったでしょうけど、私のころは、これを読まないと学生として話の輪の中に入れないというほどでは、もうなかった。

ただ、例えば家の中で、ビデオに囲まれている人だと、「あの人、大丈夫かしら」みたいな……。本に囲まれていると、普通かなと。

杉本 長田さんのお話のように、かっこよさというのがすごく重要だと思う。ただ、そういう見せるかっこよさと隠れてこっそり読むかっこよさというのがあった。
杉本卓氏
杉本卓氏


私は、大学で第二外国語はロシア語でしたが、それはロシア文学をたまたま読んで、面白かったからで。だけど、ロシア文学は、徹夜して夜中にこっそり読んだものであって、外で見せたことは一度もない。夜中にそれを読んでいるという自己陶酔みたいなものがあったと思う。だから、今の若い人たちに、そういう隠れたかっこよさがあるかどうか、そこも問題になってくるんじゃないでしょうか。

 

  映画にも歌にも本が出てこない日本

長田 数年前、中年以上の男の人は書斎が大事だ、女性はたとえキッチンの片隅でもいいから自分の机が欲しい、という話をしきりに言っていた時期があります。それはみんな、あえて挑発的な意味で言えば、かっこいいということですね。

本の場合でも、例えば昔はむっつりしているおやじがいる古本屋に入っていくのは、かっこいいことでもあったわけですね。ところが、今はそれがダサクなったから行かなくなった。

家具センターなんかに行っても、日本の場合は本箱をかっこいいものとしてつくってない。アメリカ映画の場合には本、あるいは本屋さんというのは、まだ非常に重要な役割を果している。「恋におちて」という映画は本屋から始まっているし、「ユー・ガット・メール」も本屋同士の話です。そういうのが日本の映画にはまるっきりない。それから大学の場合でも、持っている本が非常に重要な意味を持つのは、依然として変わらない。

それから、誰が何を読んだか。日本はドラマでそういうのが全然ないですね。はやり歌でも、アメリカのロックやヒップ・ホップでさえも、本の引用や、いろんなまざり合いがあって面白いけれど、日本の場合は気持ちが通じないという歌で終わっている。本とは何にも関係ない。



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