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平成11年12月10日 第380号 P4 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 現代読書事情 (1) (2) (3) |
P4 | ○横浜・龍華寺で発見された天平の乾漆像 水野敬三郎 |
P5 | ○人と作品 鈴木明と『新「南京大虐殺」のまぼろし』 藤田昌司 |
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横浜・龍華寺で発見された天平の乾漆像 |
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昨年、横浜市金沢区洲崎町の龍華寺から天平時代(七一〇〜七八三年)の脱活乾漆像が発見されて話題を呼んだ。 同寺の解体をひかえた蔵の内容物を横浜市教育委員会が調査した折、 厨子内に破損した状態で見出されたものである。 横浜では中区大芝台の中華義荘地蔵王廟にまつられる地蔵王菩薩像が、 一八九三年(明治二十六)に舶載された清代末期の脱活乾漆像であることが近年知られた。 これも珍しいものであるが、天平の脱活乾漆像も横浜はもとより、東国では初めての発見例である。 十月末には金沢文庫で公開され、多くの人の目に触れたが、ここに改めて紹介し、 脱活乾漆という技法やこの像について、いま考えられることを述べることにする。 この像が見つかった龍華寺は、源頼朝が金沢に瀬戸神社を造営し、 その神宮寺として六浦の山中に建立したのがその始めで、 室町時代の明応年中(一四九二〜一五〇〇)に現地に再興して龍華寺と称したといい、 かつて末寺二十ヶ寺を擁した真言宗御室派の寺院である(『新編武蔵風土記稿』)。 この像は同時に見出された台座(岩座)の墨書銘中に「三十三所第六番福寿院本尊也」とあり、 『新編武蔵風土記稿』の龍源寺(龍華寺)の項に挙げるその塔頭福寿院の本尊正観音に当ることがわかった。 福寿院はいま龍華寺門前の洲崎神社がその旧地といい、明治九年に龍華寺に統合されたらしい。 像は破損して蔵内に納められ、その後記録のないまま寺内でも気づかれなかったのである。 福寿院の過去帳によると、その歴代は江戸時代初期の寛永まで遡るが、 像の台座銘には「奉納聖観音弘法大師御作台宗沙門実慧寛延三庚午四月廿三日知応求之」とあり、 知応がこの像を入手して寛延三年(一七五〇)に本尊として奉納されたと、一応解される。 像のそれ以前の伝来を示す記録はない。 なお、宝暦年間(一七五一〜六四)ころに金沢観音札所巡りが盛んに行われたというが、 この像はその三十三所の第六番の観音として信仰されていたことも先の台座銘からわかる。
さて、この像は発見時、頭部と体部が頸で離れ、脚部、左足先、両腕、両手首なども離れてばらばらの状態であった。
しかしこれらを継ぎ合わせて組み上げると、一部に欠落はあるものの、
像としてのまとまった姿があらわれてくる。全高およそ八二センチ。
正面を向いて腰を少し左にひねり、左足を踏み下げて坐る菩薩の姿である
(写真参照、ただし水瓶の頸を握った左手首、
右膝上で掌を上に向けて開いた左手の肘から先は取り付けていない)。
ここでその基本的な部分の造り方を説明しておくと、まず塑像で原型を造り、
これに麻布を麦漆(漆と麦粉を練ったもの)で何枚も貼り重ねた後、
後頭部や背面の布を長方形に切り取って窓をあけ、内部の塑土を除去し、
そこに木の支柱や枠を組み入れて形を支持した上で、切り取った麻布で窓をふさぐ。
これで内部が空洞の張子のような像ができる。
像の表面には木屎漆(麦漆に木粉を混ぜた塑形材)をかけ、髪にはそれを厚く盛って毛筋を刻み、
装身具など部分的に突起した箇所も木屎漆を盛って整形する。
最後に、黒色の土漆(つちうるし)(焼土の粉を漆に入れて練ったもの)で地固めした上に漆箔や彩色を施す。 天平時代に入ってから木屎漆が像表面の仕上げに用いられ、細部も木屎漆の盛り上げに任されるようになった。 木屎漆は柔かい質感を持っている。 天平の乾漆像は、中国の夾紵像のいわば硬質の表現に対して、表現に柔らかさが感じられる。 この期に中国のさまざまの夾紵技法の中から日本人の好みに適した一つが選択され、 それが展開したと見ることができよう。そして天平後半期になると、原型塑像の上でなく、 概形を彫り出した木心に麻布を一枚貼り、これに木屎漆を盛って仕上げるという、 木心乾漆と呼ばれる簡略化した技法も派生したのである。 龍華寺像は、頭胴部では麻布を三ないし四層に貼り重ねて全面に木屎漆を塗り、 髪や条帛の結び目、天冠台、胸飾り、臂釧などは木屎漆を厚く盛り上げて造っている。 詳細は省略するが、先に述べた天平の脱活乾漆技法がここに見られる。 では、この像は天平時代のいつごろに造立されたものであろうか。 それは細部の形式を他の天平彫塑と比較することによって推測できる。 これもあまり専門的になるので詳細は省き、結論だけ記すが、装飾性豊かな髪型、 条帛を左胸で片輪結びにした形、胸飾りや臂釧の形式には、 八世紀も半ばを過ぎた天平後半期の諸作例にあらわれる新要素が見られ、自らその制作年代を物語っている。 この像の本来の尊名は形からは特定できない。 ただその腰をひねって片足を踏み下げた形が、 いずれも天平後半期の木心乾漆像である奈良市興福院阿弥陀三尊の脇侍像、 京都市高山寺薬師如来の脇侍像(いま日光菩薩像は東京国立博物館の、 月光菩薩像は東京芸術大学の保管)と共通しており、もとは三尊像のうちの脇侍像であったと考えてよい。 ところで、これは本像の調査に最初からあたった当時金沢文庫の津田徹英氏(いま東京国立文化財研究所)が気づいたことであるが、 兵庫県加美町の金蔵寺に伝わる阿弥陀如来像の乾漆造りの頭部(体部以下は近世の木造補作)が本像の頭部と酷似した作風を持っており、 やや特殊な耳のつくり(ふつう耳輪をあらわす紐状部分がそのすべてをめぐるのに、 耳輪内側の輪郭線が耳の中ほどで前方に向かっている)も共通している。 大きさの比率(面長は金蔵寺像一五・七センチ、龍華寺像一一・四センチ)からいっても、 この像の脇侍像であった可能性が考えられる。 金蔵寺の像は同寺の記録によると、 神呪寺(西宮市)と摂津国分寺(大阪市天王寺区)を兼住していた宥光という僧が、 天保十三年(一八四二)に金蔵寺に寄附したものといい、 そのいずれかの寺の旧仏であった可能性が指摘されている。 そうとすれば龍華寺像の旧所在もそのあたりに考えてよかろう。 天平の脱活乾漆像の遺品は多く奈良あるいはその近辺に集中している。 遺品分布のこれまでの東限は岐阜県美江寺十一面観音像(ただし、もとは伊賀の名張にあったという)、 西では香川県願興寺聖観音像があるが、 高度の技術と手間を要するその技法からいって制作地は奈良であった可能性が強い。 龍華寺発見の像もその本格的な技法や作風の上から、同様に考えるべきであろう。 再び世にあらわれたこの貴重な遺品が、本格的な修理を受けて、本来の姿にできるだけ近く復する日が待たれる。 |
みずのけいざぶろう |
一九三二年東京生まれ。 |
神奈川県立生命の星・地球博物館学芸員。 |
東京芸術大学名誉教授・横浜市文化財保護審議会委員。 |
著書『日本彫刻史研究』中央公論美術出版21,000円(5%税込) 他。 ※表示価格はすべて5%税込 |