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有鄰


平成11年12月10日  第380号  P3

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 現代読書事情 (1) (2) (3)
P4 ○横浜・龍華寺で発見された天平の乾漆像  水野敬三郎
P5 ○人と作品  鈴木明と『新「南京大虐殺」のまぼろし』        藤田昌司

 座談会

現代読書事情 (3)




 

  口承文化の声の大事さを私たちの文化にも回復したい

杉本 文字を間が持つことによって、いろいろな変化がある、ここが一番面白かったところです。

一つは、文字を持つことによって、抽象的思考や自己という概念が出てくる。つまりものを書くということは、書き手と読み手がいる状況から分離して、一つ独立した客観的なものになる。その分離が一つのかぎだと思う。

その一方で、文字を持たなかった文化で顕著だった、例えば遊びとか、多義性とか、あいまいさとか、そういう部分が識字文化の中では消え、ある部分では残っている。そこは、彼の本の中で少しわかりにくいところです。

例えば学校では、本の使われ方、読み書きの教え方などはルールに基づいて、言語は我々と切り離されて教えられてきた。それによって書かれた言語、もしくは読み書きが我々と余りにも遠いものになってきている。

その一方で、日常生活の中での読み書きや小説や詩の楽しみ、そういう中では、遊びや多義性が残っている。

そういう二つの道を、識字文化は持ってきた。その中で彼が重視しているのは、口承文化の中にあった声の大事さなどを私たちの文化の中にも回復していきたいということが一つです。

 

  電子メディアにつかっていると人間の声や息がなくなる危険

杉本 それとの対比で、電子メディアを考えたときに、例えばテレビでは、本の中にあった声や応答性がどんどん消され、あらかじめプログラムされたものが怒濤のように押し寄せ、それを受け取る。

つまり、電子メディアにどっぷりつかっている人々の中で、口承文化や識字文化の中にあった重要なものがなくなってきているのではないか。これが彼の一番の主張だと思います。彼が一番重要だと思っているのは、人間の声や息というものがなくなってしまう危険性です。

篠崎 それが、人間形成にかかわってくるんですか。

杉本 ある意味では、非常に西洋的な議論だと思う。人間を形成していく一番基礎にあるのは息とか声で、さらにその上に本、もしくは識字の役割がある。それは、文字を持たない文化の中では、状況とか相手と切り離せない形で自分という存在が成立する。それが、本によって切り離すことができる。それを見つめ直すことで、自己がより明確に形成される。また息や声に根ざした識字文化の中で形成されてきた自己が、電子文化の中で崩壊してしまう。それによって暴力などの問題も生じてくる、というわけです。

篠崎 声を上げて読むことが、本来性にかなっているということですか。

杉本 識字化された形で声に出して読んでもしようがない。例えば小学校の教室に行って、気持ちの悪い感じがするのは、子どもは非常に学校的朗読の仕方をすることが多い。そこでどういうふうに自分の声や、作者の声が出てるような読み方ができるか。教育の中での読み聞かせや朗読は非常にやり方が難しい。

声の世界と文字の世界それぞれの大事な部分をどう回復したらいいのか、という問題を提起しているわけです。

 

  子どもが仰ぎ見て聞いているうちは身につかない読み聞かせ

岸本 私は読み聞かせてもらった経験はないんです。本の特徴の一つは、本当に自分のペースで読めること。時間と場所を選ばないという意味で、電子メディアとも違うし、人に読んでもらうこととも違う。自分にとっては、自分のペースで好きなように読むのが一番心地よかったので、それをしてきました。

篠崎 若いころ、娘を保育園に迎えに行くと、先生が子どもたちに紙芝居や本を読んで聞かせていた。床に座って、全員ポカンと口をあけ、一生懸命聞いている光景を覚えています。これをどう解釈なさいますか。

杉本 私が幼稚園のころは紙芝居でそれをやってくれていましたが、自分の中に影響は残ってないような気がします。というのは、幼稚園の先生の朗読の仕方は、あるパターンがあって、例えば先ほどのオプラ・ウィンフリーの話で、著者がちょっと一節読むのと全然違うと思う。

長田 読み聞かせで、子どもは顔を上げてますね。今の電子機器では真っすぐ前を向いている。黙読は下を見る。読み聞かせや紙芝居で一番問題なのは子どもに上を向かせて聞かせることだと思う。

目線の問題は非常に大きな問題です。学校では先生の目線は高く、先生は下を向き、子どもは上を向く。

ところが、大学に行くと、階段教室のように、教師は一番低い所にいて、学生が上になる。

つまり、仰ぎ見ているうちは絶対に身につかないというのが、僕の意見です。


本は反復できるが、電子機器は五十年後に果して反復が可能か?

長田 電子機器は売れ行きは伸びていますが、人の上に影響を残すかといったら、僕は疑問視している。あと五十年後に影響はほとんど残っていないと思う。

例えば一九六〇年代に「アパートの鍵貸します」という映画があった。あの主人公は部屋を貸して、自分は部屋の中でテレビを見ている。映画で見た人に、「テレビを見ていたとき、どうやって見ていた」と聞くと、ほとんどの人は気がつかない。もうそのときにリモコンを使っている。

ところが、日本ではリモコンという概念がそのときなかった。したがって、その映画がビデオになって「えっ、我我が使うより三十年前にリモコンを使っていたわけ」と。概念がないと、リモコンが映っていても見ていない。

したがって、今、電子ブックとか喧伝されていても、あと何年かたって、それをもう一回復習することができない限り、絶対に記憶していないだろうと思う。本の問題で一番大きいのは、もう一回確かめることが可能なこと。さっき積読というのが出ましたが、読まなくても後で反復することができる。

ところが、電子機器の一番の問題は、その反復が果して可能かという問題がある。

 

  蓄音機からDVDへと変転の激しい音楽のハード

長田 もっと深刻な問題は音楽なんです。音楽ほどハードがこんなに変わったものはない。十代で聞いたものは、蓄音機ですから、聞くことが不可能なんです。その次にレコード、テープも入ってくる。今はCDはだめだ、DVDに全部変えると言っているわけです。

わずか人生六十年の間に七回ぐらいハードが変わって、昔のものが聞けない。今度DVDになると、そのソフトがなくなるから、また聞けなくなる。本の文化は二千五百年続いていますから、読んでいなくても、参照することができる。

僕が大学のときに、国会図書館にマイクロフィルムが入った。これで昔の新聞が全部見れると。そしたらこの間、劣化のためマイクロフィルムは、全部コンピュータにかえると。でも、CDだって同じで、いつまでもつか誰も知らない。永久に続くはずが三十年続かなかった。本は二千五百年続いている。そういうことを考えてみると、今どっちとは言えない。

 

  本離れを嘆き始めたのは四百五十万部の『…トットちゃん』から

長田 それから杉本さんが訳されたサンダースの場合でもそうですが、重要な問題の一つは、あの中にボストンのリテラシーの言葉が出てきます。あれは一八八〇年代に言っている。それだって百何年しかたっていない。読み書きの能力がなかった時代の問題と、広まってきた問題は少し違うと思う。

例えば日本のインテリたちが、阿部次郎の『三太郎の日記』を読んだときに、誰も活字離れしたなんて言わない。あれはベストセラーになったというけど、二万五千部。石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞でベストセラーになったときは二十万部。それで四百五十万部の『窓ぎわのトットちゃん』が出たら、本離れになったと言い出した。

二万五千部では誰も嘆かなかった。四百五十万部になったら、みんなが嘆くようになった。この問題を解かないとちょっと違うという気がするんです。返品も最高記録をつくりましたが、表向きは四百五十万部。

今、『五体不満足』がすごく売れているそうですが、でも、これでみんなが活字に戻ってきたとは誰も言わない。結局は数の問題じゃないんですね。

だからといって、昔のほうがいいとも言えない。電子機器が出てきたからって、それがとってかわったのを前提に言っているところが、論議がおかしいような気がする。それで、携帯電話が普及するのには、ちゃんと理由があるんです。携帯電話を持っていたら、マロリー卿は死なずにすんだ。「僕、遭難した」と発信すれば助けられたんですからね。だから電子機器はそういう必然のほうから出てきた。
 

  変わりない本の文化を変わるものの中でさらすのは困る

長田 ところが、それをどこかで取り違えた。サンダースの本の一番の弱いところを言わせてもらいますと、電子機器になってきて、自己というのが消されてきた。一方では、六○年代から始まっているミーイズムの世代で、日本の言葉では自己中と言われている。片一方は自己がなくなったと言い、片一方は自己が肥大と言う。今はこれで全部オーケーだと電子機器なんかでも言っていますが、末路を見たものは誰もいない。

ところが、みんなちょっと踊り過ぎている。先ほどの、本箱が百年変わらなかったというのは本の文化が変わらないから。それなのにみんな変わるものを前提としている。『プラトン』が初めて日本に紹介されたときから現在まで年間売れる冊数はほとんど変わりないはずです。恐らく三千部を超えることはない。

というふうに、変わりない本の文化を、変わるものの中でさらしていくと、ちょっと困るんじゃないかと思う。


電子メディアが発達しても本の位置づけは変わらない

篠崎 岸本先生、長田先生のお話でどうですか。

岸本 私は、本ととても幸せな関係を取り結んできた時代に生まれたせいか、多分自分の生活の中での本の位置づけは変わらないだろう、電子メディアにとってかわられるつながりじゃないと思う。

ただ一方で、さきほどの四百五十万部で我々が本を読まなくなったという論拠、どこからきているんでしょうね。多分、電子メディアが出たからヤバイというのは、別の問題としてあるんだと思う。

長田 読まなくなったんじゃないと思う。電子機器がもたらした最大の問題は時間の使い方を奪ったことだと思うんです。携帯電話で一時間話すと、読書の時間が一時間減ることは確かです。インターネットでサーフィンをする、つまりネットの上で動き回って情報を得るのは、金がかかる。ところが、本屋で立ち読みして、サーフィンをするのはただですから、本屋のほうがはるかにいっぱいできる。

篠崎 この間、ある書店の方が、立ち読みはやめてほしいと言っていた。入店客のお買い上げの比率をもっと上げようという意見です。でも、私はちょっと違うと思う。

杉本 書店によっては、いすを置いてあって、どうぞ幾らでもというところがありますよね。
篠崎 アメリカの超大型書店バーンズ&ノーブルという書店などはそうですね。日本でも近ごろ、この種の書店は増えています。でも、それは郊外の売り場が広いお店ならできますが、都心のお店ではなかなか難しい。私はそれこそ、先ほどのかっこよさにも通じるんでしょうけど、デートは「有隣堂の文芸書コーナーで」みたいなのがあってもいいと思う。

長田 昔は新宿の紀伊國屋書店はデートの場所だった。それが今は全然違う。本屋さんが変わったんです。昔の紀伊國屋は、一番奥に本屋さんがあって、その前に雑誌コーナーが別にあって、その横にパーラーがあった。パーラーでいつも埴谷雄高さんなんて大声でしゃべっていた。

戦前だと、京都大学のそばにある本屋があった。そういう所は、小学生のときから京大の先生になりそうな人が来ていて、「これは将来大物になりそうだ」と本屋が判断している。そういう本屋さんとのつながりがあった。今はそんな関係は全然ない。


コンピュータ検索にはない、目録をめくって見る遊びやむだ

岸本 話は変わりますが、土日に本屋さんに行くのは苦痛ですね。ある本を探そうとしても、目録が手にとれる所にない。本屋さん自体がコンピュータで検索する態勢になっているし。

図書館でも以前は、著者別、書名別の目録を好きに読めたんですが、今はそっちのほうは更新せず、コンピュータで来館者が検索するようになった。そこは人が並ぶし、目録も同時にあれば、そっちでも引けるのに。かえってコンピュータで並ばなきゃいけないとか、なれない人間は離れてしまったり。本にしろ目録にしろ、めくるという感覚を、その時点で放棄しているのは何か違うんじゃないかな。

杉本 本が決まっている場合には、検索はいいと思うんですが、遊びとかむだがなくなる。カード目録をザーッと見ているとき、ふと気になるものがあったりするんです。

本の分類と本の還元は今後の課題

長田 細かく言うと、今の本屋さんの最大の問題は分類だと思う。店に入って最初にサブカルチャーとある本屋さんがある。このサブカルチャーは何だと、思わず人に聞いたけど、わずか十年前のサブカルチャーという分類とは違う。簡単にいうと雑学らしい。分類不能のもの。それが一番最初というのが今ですね。

あと、本の場合はかさばる問題がある。今度『広辞苑』の第五版が発売になった。七年前に第四版が出ています。ある本屋さんが下取りオーケーとやったら、売れ行きが全然違ったそうです。とにかく取りかえるだけでもいいわけです。

本の場合、今までのと買いかえるという問題がある。特に文庫本になるのが早くなった。本棚を考えると、小さいほうにしておこうかと考えますよね。そうすると、その本を古本屋に売るという感覚はない。古本屋さんももう満杯なんです。そうすると、本の還元の方法を考えないといけない。

岸本 本は天下の回りものということを思って、私もマンション住まいですが、自力で回るルートづくりをした。とにかく欲しい本は買おう。読んだら、なるべく早く売ろうと。トラック一杯分で二千五百円のところもあれば、五万円のところもある。本を読み終わった後まで考えたやり方というのが大事だと思う。

長田 本を引き取ることも本屋さんに考えてもらうといいですね。

篠崎 どうもありがとうございました。




 
おさだ ひろし
一九三九年福島市生まれ。
詩集『記憶のつくり方』晶文社1,890円(5%税込)、
著書『詩人であること』岩波書店1,155円(5%税込) 他多数。
 
きしもと ようこ
一九六一年鎌倉市生まれ。
著書『結婚しても、しなくても』マガジン・ハウス1,470円(5%税込)、
『アジア発、東へ西へ』講談社文庫560円(5%税込) 他多数。
 
すぎもと たく
一九六二年東京都生まれ。
共著『情報とメディア』岩波書店2,940円(5%税込) 他。
 
※肩書きについては座談会当時のものです
※表示価格はすべて5%税込
 




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