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平成11年8月10日 第381号 P1 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 占領下の横浜 (1) (2) (3) |
P4 | ○ちょっと変わったトンボたち 刈部治記 |
P5 | ○人と作品 島村匠と『芳年冥府彷徨』 藤田昌司 |
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座談会 占領下の横浜 (1)
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はじめに |
篠崎 | このところ二十世紀に関する本が数多く刊行され、その検証が進められていますが、読売新聞でも『20世紀どんな時代だったのか』が連載され、この六月には、それらをまとめた第四巻目の『戦争編大戦後の日本と世界』が刊行されました。この連載に合わせて、有隣堂ギャラリーでは、「20世紀どんな時代だったのか」横浜展を八月十二日から十九日まで開催することになりました。横浜の二十世紀も関東大震災、昭和初期の世界大恐慌、太平洋戦争、占領、人口爆発……と激動の世紀でした。なかでも敗戦に伴う占領は、沖縄を除く他の都市では見られない、横浜の大きな特徴と思われます。
一九四五年(昭和二十)八月三十日、厚木に到着した連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーはその日のうちに横浜に進駐し、日本占領が始まりました。ホテル・ニューグランドが宿舎に当てられ、横浜税関ビルに総司令部が置かれました。五月二十九日の大空襲で被災を免れた関内周辺のビルをはじめ、市街地の大半が直ちに接収され、後続部隊が続々と到着するにしたがって、焼け野原の随所にカマボコ兵舎が建ち並びました。税関ビルには、マッカーサーの総司令部が東京に移った九月十七日以降は、アイケルバーガー中将率いる第八軍司令部が置かれ、横浜は全国の占領を統括する拠点になりました。そこで本日は、占領期の横浜を中心に、二十世紀を振り返ってみたいと思います。 ご出席いただきましたケネス・バトラーさんは日本研究家で、現在、横浜のみなとみらいにある「アメリカ・カナダ大学連合日本研究センター」所長として日本研究者の養成・指導に当たられています。朝鮮戦争当時、米海軍駆逐艦に乗務して実戦も体験され、その間、たびたび追浜や横須賀の海軍基地に寄港され、横浜にも滞在されております。
斉藤秀夫さんは「横浜の空襲を記録する会」の事務局長として『横浜の空襲と戦災』(全六巻)の執筆・編集に携わられました。横浜のご出身で、戦後は横浜の地域の労働運動に参加され、朝鮮戦争時は、県内の米軍基地で働いておられました。 寺崎弘康さんは神奈川県立歴史博物館主任学芸員で、近代政治史がご専門です。アメリカの国立公文書館などに残されている戦争・占領期の米軍資料を長年、調査・収集されています。 高木規矩郎さんは、読売新聞社編集委員で、現在『20世紀どんな時代だったのか』の企画取材班の中心として活躍をされています。本日は高木さんに進行役をお願いし、私は一体験者として参加させていただきたいと思います。 |
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高木 | まず最初に、戦争が始まる前の横浜の印象について、バトラーさんはアメリカでどのようなイメージを持っておられましたか。
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バトラー | 横浜がどういう所か、全く知りませんでした。 |
斉藤 | 私は神奈川区生まれですが、親が「今日は横浜へ連れていってやる」と言う。当時、「横浜」といえば伊勢佐木町か関内のことで、にぎやかで大きなビルがあって神奈川とは違う印象でした。
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寺崎 | 私は新潟県出身で、横浜のことは博物館に勤めだしてからですが、初めに勉強したのは関東大震災でした。開港以来の横浜の文化の蓄積が震災で一挙に壊され、その再建途中で、今度は戦時体制に巻き込まれた。中途半端な状態で横浜は戦争を迎えた。ですから、震災と戦争、空襲という一つの流れをとおして今の横浜がつくられてきたと思っています。
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篠崎 | 父から聞いた話ですが、昭和の初めの大恐慌はすごかったそうです。十八歳になったばかりの姉娘をアメリカに留学させたところで、当初一ドルが二円だったのが、あっという間に四円にもなった。日が暮れると伊勢佐木町通りは人影も消えて、売上がさっぱり。自宅にも借金取りがきて待っている。夜更けの帰り道、家の近くの本牧十二天神社の参道を行きつ戻りつしながら、どの松の枝で首を吊ろうかと考えたそうです。
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戦前、ニューグランドに宿泊していたマッカーサー
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高木 | 二十世紀の企画にかかわっていると横浜がいろんな形で出てくる。まず占領の第一歩としてマッカーサーが厚木に降りて、横浜のホテル・ニューグランドに入る。
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斉藤 | 彼は一九三五年(昭和十)と三七年に横浜に来ている。とくに三七年は六月にハネムーンで来て、ニューグランドに泊まっています。
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寺崎 | 明治末にマッカーサーの父親が駐日米国大使館付武官として日本にいまして、そのときマッカーサーも父親と一緒に日本に住んでいた。
| 斉藤 | 一九三五年十月の新聞によると、マッカーサーは「乃木大将はすばらしい」なんて言っている。 |
高木 | そういうことを考えると、マッカーサーの占領政策は日本での体験がバックにあってできたとも考えられますね。 |
斉藤 | 九月二日に本牧沖のミズーリ号で降伏調印が行われたとき、ミズーリ号に掲げられていたのは、ペリーが持ってきた星条旗です。調印式のためにアメリカ本国からわざわざ取り寄せた。いかにも第二の開国ということで、俺は日本を知っているぞと……。厚木に来たときも、ほかの兵士はピストルか小銃を持っていますが、彼は持っていない。安心した様子でコーンパイプをくわえて降りてくる。
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寺崎 | 見た目を非常に意識するというか。ルソン島を奪還したときの海から上陸するシーンは何度も撮影したと言われているし、厚木に降りたときも、必ずストップモーションにして撮影させたと。 もう一つは、戦争末期の日本本土への侵攻計画のうち、もっとも有力視されていた関東上陸作戦、これはコロネット作戦と命名されていましたが、このコピーの一号は、マッカーサーが持っていた。一番最初に彼の手元に重要な書類が必ず行っていたということは、日本の侵攻作戦の中でマッカーサーは、ポジションだけではなく、やはり実力もすごかったんだと思う。 |
高木 | バトラーさんは、マッカーサーにはどんな印象をお持ちですか。 |
バトラー | 僕が初めて日本にきたのは一九五一年(昭和二十六)七月ですが、その少し前に、アメリカの海軍の学校でレーダーとコンピューターの勉強をしていたころ、マッカーサーが日本占領の総司令官を解任されてサンフランシスコに戻ってきたときの演説をラジオで聞いた。そのとき、すごく偉大な人だという印象を受けました。
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寺崎 | 一九五一年四月に総司令官を解任されます。 |
篠崎 | 進駐軍が入ってきたとき、私は女学校の三年生でした。今まで聞かされていたのと大違いで、アメリカ兵は何てかっこいいんだろうってみんな素直に思いましたね。
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