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有鄰


平成11年8月10日  第381号  P2

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 占領下の横浜 (1) (2) (3)
P4 ○ちょっと変わったトンボたち  刈部治記
P5 ○人と作品  島村匠と『芳年冥府彷徨』        藤田昌司

 座談会

占領下の横浜 (2)



空襲の結果や影響を詳細に調査

高木 アメリカ軍の戦略爆撃調査団が空襲や占領直後の映像・写真記録、尋問記録などを残していますが、これはどのような目的で行われたのでしょうか。

寺崎 これの横浜の記録については、横浜の空襲を記録する会が、今井清一先生の責任編集で『横浜の空襲と戦災外国資料編』としてまとめられています。

この調査団は、一九四四年にアイゼンハワー大統領が、ドイツの空爆の効果と意味を調べる目的で発足させたものですが、ヨーロッパ戦線が終わると、今度、太平洋地域での対日戦争の調査団に変わっていきます。日本進駐と同時に約千名のスタッフが日本調査団のメンバーとしてやってきて、全国各地でさまざまな調査を行います。

この調査は単に日本に対する空爆の結果だけでなく、空襲が日本の経済や軍備、鉱工業生産などに与えた影響、空襲によって日本人がどれだけ戦意を喪失していったのか、なども調査しています。

従来、米軍の空襲は重点爆撃というか、工場とか重要拠点をねらったピンポイント爆撃だったんですが、カーチス・ルメイが指揮官になった一九四五年ごろから焼夷弾によるじゅうたん爆撃、いわゆる無差別爆撃に変わっていく。その結果が、どれだけ日本人の厭戦気分を醸成したか、空襲の意味をもう一回米軍が問い直すためにおこなった調査だと思います。一九四七年六月に報告書がつくられますが、日本の政治家や武官、一般庶民にいたるまで多くの聞き取りをおこない、非常に細かく調べています。

バトラー それは日本全国の調査なんですか。

寺崎 そうです。長崎と広島の原爆についてもやっており、同時に大量に映像で撮影している。 カラーのものもあり、現在、アメリカの国立公文書館に保存されています。

 

  アジア全体を見渡した戦後対策を考えて調査

斉藤 もう一つは、このころから連合国軍が戦後対策を考えて、つまり戦後をどうするかということで調査したような気がします。アジア全体を見渡した政策に変わってきているというか。

寺崎 神奈川県庁、税関、今は県立歴史博物館になっている横浜正金銀行とか、関内の主だった建物は意図的に残している。こういう大きな建物は小さな焼夷弾では類焼しないと計算もしていたようです。

斉藤 日本鋼管の浅野ドックや横浜船渠などでは、労働者が「うちはアメリカと縁が深いから空襲されない」などと平気で言っていた。

バトラー 横須賀はほとんど爆撃されてませんね。横須賀基地がなかったらアメリカは朝鮮戦争はできなかった。

 

  防火用水に飛び込んで全身濡らしては逃げた横浜大空襲

高木 ところで斉藤さんは空襲を体験されたのですか。

斉藤 五月二十九日の大空襲を神奈川区の自宅で受けました。よく晴れた日で、朝八時すぎに空襲警報が鳴って、ザァッーという音とともに焼夷弾が落ちてきて、防空壕に飛び込んだんです。それがおさまって外を見たら火の海で、家から三十メートルほどの、東横線の反町駅と東白楽駅の間にあった新太田町駅前の防火広場へ逃げた。途中火の手がすごくて、防火用水に飛び込んで全身濡らして逃げたんですが、すぐに乾いてしまい、睫毛も焦げるという状態でした。その広場では何百人もの人が右往左往していて、機銃掃射も受けました。そのたびに東横線のガード下へ逃げ込んだりして……。煙で真っ暗になり、夜みたいでした。

高木 バトラーさんは、大都市空襲の話はどのように耳にしておられましたか。

バトラー 僕は当時十四歳で、ワイオミング州の片田舎にいました。ドイツへの爆撃があり、ヨーロッパでの戦争が終わりそうで、今度は東京や横浜への爆撃だと。これが戦争だということしか印象に残っていない。B29がマリアナから発進して空襲を始めたときは、直接、日本本土を攻撃できると、かなり宣伝されました。

 

  戦後経営を考えた連合国軍の空襲のやり方

斉藤 作戦任務報告書を見ると、横浜の場合、一番最初に五か所のポイント、つまり東神奈川駅、 横浜駅の近くの平沼橋、市役所のそばの港橋、お三の宮(日枝神社)の近くの吉野橋、それから山手の大鳥国民学校に大型の焼夷弾を落とす。日本では焼夷爆弾と言っていましたが、焼夷弾の弾頭に火薬が入っていて、これはものすごい煙が上がる。そのあと、その内側を繰り返し爆撃しているんです。

寺崎 目印にしたわけですよね。

斉藤 はい。そしてこの爆撃の様子を五分ごとに撮影しているんです。

空襲のやり方について一番きちんとした報告書は『ファイア・オブ・八王子』です。八王子は四五年八月二日未明に空襲を受けましたが、日本の都市空襲の中で、一番投弾数が多かった。 米軍は、八王子地区を四つに分けて、その地区の特性を調査して、それに応じた爆弾と焼夷弾を投下して、その結果がどうだったかという調査をしているんです。これは特に、戦後をどうするかということで調査したような気がします。


「日本人の町」野毛と「占領軍の町」関内・伊勢佐木町

高木 映像などから見て占領下の人々の様子はどうですか。

斉藤 占領直後の九月ころの映像が多いのですが、一番驚くのは意外と素直に占領軍と接している。鬼畜米英と教えられてきたのに、その切りかえの速さというか……。
横浜には居留地があって、外国人と接する機会が多かった影響でしょうか。

斉藤 横浜は子供から違ってきている。私立小学校は一九三九年(昭和十四)まで英語教育をやっているし、一九三八年夏には消防士の英語講習会などもやっています。

私は一九四三年に小学校高等科を卒業しましたが、もう戦争は始まっているのに、高等科では私の年代まで英語を教え、商業科には英語の先生がいて商業通信文などの書き方まで教えた。

それから、たしか一九四四年(昭和十九)十月に、今の関内駅のそばにあった蓬莱町教会に五十人ほどの牧師が集まったとき、「今まで米英の援助を受けてきたのであるし、戦争終了後は再び元の関係に戻るのだから騒がずゐた方が有利」と話し合ったというんです。それが官憲の報告の中にある。

高木 斉藤さんの戦前派の視点からしますと、占領下の横浜は、大きな形ではアメリカナイズとかが劇的にはおこなわれなかった。

斉藤 官憲が調査した中に戦争に負けたけれど、アメリカが来て、昔のハマに返れたみたいな気がする、という報告がある。 それがまず横浜市民の気持ちだったんではないでしょうか。

 

  神奈川県・横浜市は若い女性に避難を勧告

バトラー 僕は、一九六七年から二年前まで東京に住んで、その後、横浜に住んでいますが、非常に強く感じたことは、東京の雰囲気と横浜の雰囲気は随分違う。簡単に言うと東京は内向き、横浜は外向きという感じ。なぜそうなっているのか、この四年間いろいろ考えているんです。

一つは、ペリーの開港が、日本の個人にも、社会にもすごく心理的なショックを与えたと思うんです。 けれど、開港の場所が横浜なのに、一番ショックを受けていないのが横浜で、おかしいんじゃないかと。いろいろ考えてみると、ペリーがやってきたときには横浜には何もなかった。幕府や武士や町民文化などは全部江戸だった。

ですから、外国から人が来たときに、どうやって外国人と仲よくできるかというのが出発点で、そういう雰囲気がずうっと今日まで横浜に残っているんじゃないか。

寺崎 しかし不安もあったようで、神奈川県、横浜市は女子職員に、退職・休職して避難することを勧めている。

斉藤 県知事の藤原孝夫さんが、職員だけでなく、横浜・横須賀・川崎の市民に対しても、若い婦女子はできるだけ地方へ避難させるよう勧告を出した。またアメリカ兵に近寄らないようにという回覧も回しています。

篠崎 占領軍が入ってくるちょっと前だったと思いますが、桜木町の駅で、みんな顔を黒く塗って、ワイワイ切符を買っているのを見ました。逃げようという人も随分いたんですね。うちは誰も逃げませんでしたけど。

 

  二万四千人が進駐し焼け残った建物は接収される

高木 野毛は日本人の町、関内・伊勢佐木町は占領軍の町と言われたようですが…。

斉藤 八月三十日に占領軍が入ってきて、マッカーサーはニューグランドに、 兵士は生糸検査所ほかの兵舎に入った。 そして大岡川以東の関内一帯が占領軍の指定地域になったんですが、野毛は指定地域にならなかった。

篠崎 どこが境ですか。

斉藤 今の吉田町の先の都橋です。境界は川です。それで、弁天橋など十二か所の橋と、区域内の四か所に検問所が設けられ、日本側の警察官とMPが警備にあたった。

寺崎 降伏調印が終わった九月二日以降、本格的な占領が始まりますが一九四五年十二月現在で神奈川県下に駐屯した進駐軍の数は約九万人、そのうち横浜が二万四千人といわれています。

高木 当時の伊勢佐木町はどんな状況でしたか。

篠崎 アメリカ軍の町という印象でした。焼け残っていた大きな建物は全部進駐軍に接収されていた。デパートの野澤屋(今の松坂屋)が事務所、寿(のちの松屋、松坂屋西館)はPX(占領軍用の売店)。ちょっと先の市電の通る交差点の右奥あたり一帯は飛行場になっていて、小型機が発着していた。エア・ストリップと書いてありました。

斉藤 不二家が下士官クラブ。吉田橋際の松屋は一五五病院。オデヲン座がオクタゴン劇場で、横浜球場はゲーリック球場でした。

篠崎 伊勢佐木町にはスーベニアの露店などがいっぱい出てました。有隣堂は五月二十九日の空襲で全部焼け、焼け跡地は接収されました。伊勢佐木町側の半分はモータープール、後ろ半分にはカマボコ兵舎が建ち、その中はレントゲン室だったそうです。

高木 その間はどこで営業をされていたんですか。

篠崎 三渓園のそばの倉庫だけが焼け残ったので、一九四五年の九月からそこで営業を再開しました。四七年には野毛に移り、十年後の五六年に伊勢佐木町に戻りました。

 

  エネルギーがあって一生懸命にやり直そうとしていた日本人

高木 バトラーさん、五一年頃の横浜はどうでしたか。

バトラー 横浜駅のあたりは何もなかった。みんなすごく貧しい生活をしてるけど、意外にエネルギーがあって、一生懸命やり直そうとしている感じでした。戦争中に聞かされていた日本人像と随分違うなと思ったし、このことが日本のことを勉強する一つのきっかけになったんです。

海軍にいた三年の間に、駆逐艦は横須賀や横浜に何回も入りましたので、フリータイムに鎌倉のお寺などを見て歩いたんです。 このときの印象が残っていたので、海軍をやめて、ハーバード大学の大学院でライシャワー先生に教わったとき、『平家物語』を論文のテーマに選んだんです。

高木 その論文で博士号を取られたんですね。


米軍特需・朝鮮特需が戦後復興の決め手

高木 朝鮮戦争が始まったのが一九五〇年六月ですね。

バトラー 朝鮮戦争で僕は軍隊がきらいになったんです。

海軍には二十歳のとき、一生いるつもりで志願して入った。僕の任務はレーダーとコンピューターの技師の仕事でした。

船の一番上に距離を計るための二十四倍の望遠鏡があり、駆逐艦が海岸から何千メートルも離れた所から攻撃しているときに、僕はその望遠鏡で見ているんです。

五インチ砲はかなり大きいので、距離を計って、それをコンピューターに入れて、ガンでねらう。ある日、近い所で農民が畑に出ていたら、将校が興奮して、「やろう」と言うので、僕がその距離を入れて、別の人が攻撃した。僕の目の前で農民が吹き飛んでしまいました。これでいやになったんです。

当時、戦争反対ということは絶対に言えなかった。それでいろいろ考えたうえ、距離は計るけれど、必ず距離をずらしてコンピューターに入れた。そして、それからは人を殺さなかった。

篠崎 朝鮮半島の東側ですか、西側ですか。

バトラー 東。ウォンサンという港の沖あたりです。

斉藤 元山ですね。たしかこの辺だと思われますが、日本人船員も動員されて、一九五〇年十一月十五日に二十二人が戦死している。戦死しても、米軍は日本人を使ったということになると問題があるので公表できない。それで戸籍抹消を担当した横浜市の警察署長が自分で記録を残した。それを、横浜の空襲を記録する会ができたときに、公表してほしいと出してくれたんです。



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