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有鄰


平成11年9月10日  第382号  P4

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 箱根温泉と湯治 (1) (2) (3)
P4 ○現代ガラス  武田厚
P5 ○人と作品  小林恭二と『父』        藤田昌司



現代ガラス
新しい造形芸術の誕生
武田厚




   戦前とは決定的に違う前後のガラス造形

 先ごろ、「日本のガラス・二〇〇〇年」展(サントリー美術館)の会場に足を運んでみて納得できたこと があった。それは、第二次世界大戦後のガラスとそれ以前のガラスとの間には、ガラス史としての継続性が ほとんど感じられなかったということである。

 より具体的にいうと、海外からの流入による古代の出土品は別として、日本人の手によるガラスの歴史、 例えば江戸のガラス、明治・大正のガラス、昭和初期のガラス、といったものと、戦後に生まれたガラス 造形作品との間の決定的な違いをあらためて見たということである。

 違いの最も大きな点は「素材」と「造形」に対する認識の隔たりであろう。つまりガラスという素材に 対して作り手がどのように関わってきたか、という問題である。伝統主義的な技術や装飾様式は今日も大事 に受け継がれてきてはいるが、そうした類のものとは縁遠い造形のガラス作品が戦後になって増大してきた ということである。おおまかにいって、少なくとも昭和戦前期までのガラスはその歴史の延長上にある純然 たるガラス工芸であり、戦後のそれは用途を目的とせず、時には美的要素さえも意識せずに作る自由な ガラス造形作品という言い方ができる。

 ガラスという素材に対する全面的な信頼と依存によってひたすら「ガラスによる器」作りに励み、高度な 技術とユニークな装飾性に一心を傾けることが多かった戦前までの時代、そしてそれらを一変させるような 対照的な戦後、つまり技術や技法のしがらみから一旦解放された上で独自の「個人的造形表現」に強く関心 を示す制作姿勢への転換、ということである。前者はガラスのためのガラス器作りを意味し、後者はあくま でも自己表現のための造形に必要な素材としてのガラスを選択する、という素材に対する関わり方の違いで ある。

   斬新な造形のため素材としてガラスを選ぶ

 ガラス分野の場合の素材に対するこうした意識の変化は実は戦前の一九二〇年代からフランスなどで芽生え てきていた。たとえば、もともと画家だったモーリス・マリノなどは、その頃から職人の手を煩わせずに 自ら吹き棹を握って、気泡(あわ)だらけの歪んだ器風オブジェを作った例がある。また日本においても、 昭和の初期から宙吹きの色ガラスによって自由な造形のガラス器制作に挑戦していた岩田藤七らもいた。

 がしかし、彼らの仕事に対する意識は、いまだガラスという素材に密着することで成り立っていたもので、 造形素材の一つとしてガラスを選んだわけではなかった。ここのところの微妙な意識の相違が、戦前までの ガラスと戦後のそれとの大きな違いを生んでいるともいえよう。

 このことは日本に限らず、世界のガラス史の上でもよくよく見られる事象であり、今や、ガラス分野の 研究者の間では国際的な常識となっている。それを実際の作品で通観すると、まさに通観するたびに、その 違いの大きさを認識させられるということである。

 むろん、それぞれにガラスの歴史を誇る国々の戦後におけるこうしたガラス造形の意識改革は、いずこに おいてもスムースにおこなわれたとは限らない。

 たとえばヴェネツィアのガラスを見ると、十七世紀を最盛期としながらほぼ一〇〇〇年の歴史と成果を 一応評価されてはいるが、戦後のそれは、いまだ歴史と伝統に裏付けされた高度な技術に支配されがちで、 斬新な造形のためのガラス作りへのステップが弛緩状態にある。

   伝統的な技法や表現から脱出したボヘミアのガラス界

 他方、六〇〇年のガラスの歴史を持つボヘミアのガラス界では、戦後まもなくの一九五〇年代から、 リベンスキーらの優れた指導者のもとに、「ガラス彫刻」という分野の開拓が積極的に打ち出され、呪縛の ような伝統的技法や装飾的表現からの脱出に成功してきた。彼らはガラスと建築とのコラボレーション、 ガラスと現代美術の動向との関わり等も視野に入れて、素材としてのガラスの特質を次々と開発し、 二十世紀の終わりを飾るに相応しい新たな造形芸術分野を確立させるまでの成果を残している。

   個人の作家が独自性を競いあうアメリカ

 さらにガラスの歴史が浅いアメリカでは、一九六二年にハーヴェイ・リトルトンらのデモンストレーション やシンポジゥムを機に「スタジオ・グラス」が提唱された。それがその後のアメリカを中心として各国に 「ムーヴメント」として伝播し、いわゆるガラスの個人制作の可能性や、それによる個人作家の誕生をみるみる 増殖させていったわけだが、戦後のガラス造形における意識革命に拍車をかけた出来事として重要である。 彼らはガラス工芸家ではなくガラス作家、グラス・アーチスト、あるいはガラス造形作家としての意識を 常識として持ち、個性的な造形表現を目指し、その独自性を日々競っているという状況である。したがって、 彼等はいつでも素材としてのガラスから離れる用意があり、決してガラスにこだわったりはしない、という 向きがある。彼らがこだわるのはガラスではなく自己表現の独自性だけなのだ。

   国際的に最も評価されている藤田喬平

 日本での場合はどうかというと、戦後のガラス界の先駆者には、戦前から活動を続けてきた岩田藤七や 各務鑛三、そして今日その造形のユニークさと広範な活動実績で最も国際的に評価されている藤田喬平らが いる。
 彼らを中軸として展開されてきた日本ガラス工芸協会メンバーの初期の活動は、戦後日本のガラスの草創期 を充実させるに十分であったし、その後に誕生した優秀な若手作家群の多くは、ガラスにおける国際感覚を いち早く身につけ、フリーランサーの立場で自由な作家活動を続け、ガラス芸術としての質の高さや表現の 特異性において大いに誇り得る作品を発表してきている。

 にもかかわらず、冒頭に述べた「日本のガラス・二〇〇〇年」展に選ばれ、展示された戦後の作品は、 残念ながら誇り得る資質のものは少なかった。恐らくは、作品選定の基準に問題があったのであろう。 戦後のガラスの歴史的展開を限られた作品数によって示すのは容易ではないとは思うが、歴史的に見て まったく異質な戦後のガラスの意識の転換を如実に示す優れた作品の選出にこそ意義があるのであって、 主催者側のその認識の浅さが私には惜しまれた。

    奔放さと多彩な感性が戦後のガラスの魅力

 とはいえ、戦前までと戦後とでは、作り手側のガラス観がまったく異なることを、その企画展は明らかに 示していた。

 優美な遊びごころも見える職人気質の江戸のガラス、稚拙な技術の明治・大正期の日本式近代ガラス、 昭和戦前期の創作への目覚めを物語る素朴な装飾ガラスなどは、それぞれに味わい深いものではある。がしかし、 戦後のガラスに見られる表現と技法の多様性、作品の量感や存在感、個別的なメッセージ性の強さ、 そういった作品の持つ諸要素は、戦前までのガラスにおいてはほとんど必要とされていなかったものである ことが一層理解できるのである。

 この違いは、単に新旧の時代の差という問題ではなく、また新旧の質を問う評価の問題でもない。 つまり、それぞれに必然性があって生まれた「別の種類のガラス」であるという事実を正しく示したもの だという方が適切である。ただ、私の場合は、戦後のガラスの奔放さと多彩な感性に気持ちが傾倒しており、 造形としての魅力を多分に感じているということだけは明らかなのである。

   「現代ガラス」とは営利を目的としない個別的造形表現

 ところで、戦後の自由な造形ガラスのことを我々は普通「現代ガラス」といっている。これは戦後の現代美術に同調 する分野の一つととらえているための呼称である。しかしながら、「現代ガラス」という言葉はまだまだ一般 には馴染んでいないことを我々は知っている。ガラスに「現代」がついているために、急にはその種のガラス がイメージできず、むしろ難解さの代名詞のような現代美術を想像して自ずと拒絶反応が現われたりもする。 ましてや「スタジオ・グラス」という言葉も一般的ではない。

 そもそも「現代ガラス」という特定された世界共通の原語というものはない。したがって外国語に類似の 用語を当てるとすれば、モダン・グラス、コンテンポラリー・グラス、ニュー・グラス、あるいは スタジオ・グラスということになる。

 このうち、モダン・グラスは通常、少し時代が遡って戦前のガラスも含まれるので、あまり相応しくない だろう。ゆえに「現代ガラス」とは日本独自の用語なのである。概念はまだしっかりしてはいないが、 少なくとも営利を目的としない個別的造形表現を志向するもの全体を包括していると私は理解している。

 すでに二十年以上も前から日本でもその言葉がしばしば使われ、そうした名称の展覧会もいくつか開かれ てきてはいる。むろんそれなりに現代ガラスのファンもコレクターも増えている。チェコやアメリカのよう に建築関係者の関心も年々高まってきた。がしかし、その認知度はガレやドームやティファニーのガラス にはまだまだとても及ぶものではない。それだけに、機会があれば、この二十世紀末に開花した新しい光の 芸術「現代ガラス」の存在を紹介し、その魅力を広く伝えたいという心境になる。 このたびの小著『現代ガラスの表現』は、その意味での、ささやかな啓蒙普及書なのである。




 たけだ あつし
 一九四一年北海道生まれ。
 横浜美術館学芸部長・美術評論家。
 著書『現代ガラスの魅力』芸術新聞社2,854円(5%税込)、『現代ガラスの表現』有隣堂2,500円(5%税込) ほか。





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