Web版 有鄰

『有鄰』最新号 『有鄰』バックナンバーインデックス  


有鄰


平成11年9月10日  第382号  P5

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 箱根温泉と湯治 (1) (2) (3)
P4 ○現代ガラス  武田厚
P5 ○人と作品  小林恭二と『父』        藤田昌司

 人と作品

父の実像に真正面から迫った文芸作品

小林恭二と
 



  子供から見た父のスーパーマン伝説

 小林恭二氏の『父』(新潮社)は、題名の示すとおり、父の生涯を描いた作品である。“父と子”は 文学上の大きなテーマではあるが、このように父の実像に真正面から迫った文芸作品は稀だ。 しかも並の父ではない。幼少から“神童”と呼ばれ、四修(旧制中学四年修了)でエリートコースの 一高文乙に進み、東大法学部を出て一流企業のトップにまでなりながら、晩年は「緩慢なる自殺」で 人生の幕を閉じた男だ。登場人物は例外を除いて実名。「ノンフィクションかフィクションかと聞かれれば、 答えは難しいんです。事実を中心に構成したという意味で、手法的にはノンフィクションといえるでしょうが、 しかしあくまで自分という子供の視点から見た父ですから、虚構化されていることは避けられない。 大体私はホラ話のフィクションを書いてきた作家ですから、これはノンフィクションという偽装工作に よって、私の視点から見た父を描いたということになります」
小林 恭二氏
小林 恭二氏


   父の名は小林俊夫。東大卒後、神戸製鋼に入社、三本の指に入る秀才として出世コースをたどり、 常務、専務と進むが、嬌激な性格が災いして社長にはなれず、監査役、顧問に。現役引退後は ビジネスウィーク、フォーリン・アフェアーズその他の外国誌の論文を翻訳、「戦略的最新情報」として 社に提供し続けた。

 その一方、私生活面では一時、園芸に凝り、会社以外のすべての時間を庭に注ぎ込み、家は“花屋敷”と 呼ばれるほどだった。が転居を契機にすっぱりとやめ、今度は仏教の研究に打ち込む。難解で知られる 道元の『正法眼蔵』から始め、毎日勉強した。ついには出家を口にするようにさえなる。そしていつもその 相手をさせられたのが、少年時代の作者だった。

 〈この家にいる間、わたしは友人と遊ぶことはできなかった〉〈そうした生活は必然的にわたしと父の 関係を濃くした〉。

 つまりこの作品は、そのような子供から父をとらえた一種のスーパーマン伝説なのだが、ではなぜ、この 作品を書こうとしたのか。

 「じつは父の存命中から企らんでいたんです。父は病院にお気に入りの安楽椅子を持ち込み、その椅子に 座ったまま死んだ。父がなぜああいう死に方をしたのか疑問を持ち、自分なりの検証をしてみたわけです」

 晩年の父は風邪をひいて医者にすすめられたのがきっかけで、咳止めシロップを愛用し、次いで酸素吸入用 のボンベを手放さなくなり、パブロンSに淫し、ブロン中毒症に陥った末、心臓発作や呼吸停止、失神などを 繰り返すようになり、入院する。そして、延命手術を断わり、点滴をひっこ抜き、ついには治療する医師を 殴りつけようとさえした。壮年期に没頭した仏教の死生観は痕跡をとどめず、死期の近づいた父の心を 捉えていたのは、やはり幼児から親しんだキリスト教の死生観だったようだという。

  人生の義務感の対象を理解しようと苦闘していた父

 話は前後するが、このスーパーマンのような父の人生がすべて順風満帆だったわけではない。 旧制一高時代、重篤な肺結核にかかり、ようやく回復して神戸製鋼に就職したものの再発し、肺切除の手術 で休職期限ぎりぎりで復職するなど、二度にわたり病魔に脅やかされた。しかも、行くとして可ならざるは なしの秀才を襲ったのは、病魔だけではなかった。

 〈父は可能性を信じていたに違いない。そして輝かしい可能性の集合体こそ自分だと思っていたに違い ない。/それゆえに父は敗北する運命にあった。可能性を秘めた人間として生まれた時点で、父の敗北は 決定づけられていた〉。

 自分は結核にむしばまれ、国は破れ、家屋も失われ、弟妹は悲惨な境遇のなかで死んでいった……。

 「書いていて、何でもっと気楽に生きられなかったのかと思いました。たしかに父は超人だったけれど、 休息の喜びを知らない人だったのです」

 父の死の四日後に母も死ぬが、その直前母に、「おとうさんは死ぬ時負けた顔をしていなかったでしょう。 勝った顔をしていたでしょう」と訊ねられ、〈わたしたちはそのたびにうなずいたが、母は嬉しそうな顔を しなかった〉。この母の言葉がこの作品を書くモチーフになったという。

 〈人間は、誰しも自分の人生に対して、言葉に表し難い義務感を抱いて生まれてくる。その義務の対象が 何であるか、生まれながらにして知る人間はいない。だから人間は、さまざまな試行をくりひろげながら、 その義務感の対象を、せめて自分だけには理解できるものにしようと苦闘する。父もそうだった。……その 苦闘が実ったとも実らぬとも結論がつかぬまま、その人生を終えた〉と作者は結んでいる。
1,680円(5%税込)。

(藤田昌司)


(敬称略)


  『有鄰』 郵送購読のおすすめ

1年分の購読料は500円(8%税込)です。有隣堂各店のサービスコーナーでお申込みいただくか、または切手で
〒244-8585 横浜市戸塚区品濃町881-16 有隣堂出版部までお送りください。住所・氏名にはふりがなを記入して下さい。







ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.