■『有鄰』最新号 | ■『有鄰』バックナンバーインデックス |
平成12年5月10日 第390号 P3 |
|
|
目次 | |
P1 | ○「カラス」 高橋千劒破 |
P2 P3 P4 | ○座談会 岡倉天心と近代の日本美術 (1) (2) (3) |
P5 | ○人と作品 押川國秋と『十手人』 藤田昌司 |
|
座談会 岡倉天心と近代の日本美術 (2)
|
編集部 | 漢学のほうは神奈川の長延寺のお坊さんに習ったんですね。お父さんもそういう意味で、相当教育熱心な方だった。 |
||
中村 | やっぱりエリートを育てようとしたのは、歴然としています。しかも、由三郎に言わせると、それだけの感覚が兄にはあった、天才的であったと。
|
||
|
|||
中村 | 石川屋には、いつも越前から荷物を運ぶ人がやってきたわけですが、岡倉はその越前の雰囲気の中で育って、一方で英語をやり、漢学をやる。だから「越前の原風景」というのを私は書いたわけです。
|
||
青木 |
そして実際、明治二十年ころまでは、たとえば『ファーストナショナルリーダー』という、全文が英文の本を少なくとも小学校上級で使った。当時は、開成学校でも外国語で講義をする。日本人の先生がいないから、仕方がないんです。それが理解できたみたいです。 漢文の教科書は眼の前に置いていますが、素読と言って、先生が読むとおりに、大きな声で同じように読む。それを何回もやっているうちに、何となく「あっ、この字はそう読むのか」というふうに覚えるくらい、小さいときからの学習はあったんでしょう。 |
||
森田 | 長延寺の和尚さんに漢籍を学ぶ前に、読み書きそろばんは、お父さんが家庭の中で教えたんですか。 |
||
中村 | お父さんは字もうまいし、竹下助七あての書簡などは、内容もしっかりしている。俳句も読む。家庭に学問的雰囲気はあったと思う。
|
||
バラの塾に通ったがキリスト教徒にはならなかった
|
|||
森田 | バラの塾は、昔の写真で見ると、かなり大きな建物です。どんな人材が出たんですか。 |
||
中村 | 植村正久とか若松賤子とか。しかし結局、岡倉はキリスト教徒にはならなかった。彼は、『東洋の理想』や『茶の本』でも、キリスト教というのは西洋の一種のアジア侵略の手先というぐらいまで言っています。
バラは牧師で、しかも、のちには語学を教えないで宣教師に専念する男です。 |
||
森田 | ジェイムズ・バラとジョン・バラが教えていた高島学校と両方に行った。 |
||
中村 | はっきりしていませんが、そのことについては、一番最初に出てくるのは、一雄さんの伝記です。のち、清見陸郎さんの伝記に、由三郎さんの話も聞いて触れています。
|
||
特徴のある天心の字体はどこからきたか
|
|||
森田 | その問題に絡めて、天心の字の問題があります。ああいう字体はどこから出てきたのか。つまり、英語教育が先行して、漢籍の勉強が後になったので、正規の教育を受けた字体にならなかったと言われていますね。
|
||
青木 | 少なくともあの字は外国語を書く人の字ですね。日本人の、漢籍を学んだ人としては実に下手な字です。 |
||
中村 | 私はそうではないと思う。つまり、中国書道史をやると、ああいう字は時々出てきます。英語をやったからそうなったというのは、何の根拠もないんですよ。
見た人によれば、六角紫水や新納忠之助も書いていますが、先生は書くときに紙を右上がりにして書いたと。書いたあと、紙を真っ直ぐにすれば字は斜めになる。だから、英語で書いていたからそうなったわけではない。私は、書としてはうまいと思うし、味があると思う。勢いがあるし人格のあらわれている字ですよ。 |
||
青木 |
藩校では、結構年になるまで、漢学をずうっと学んでいる。岡倉もそうですが、そういう正規の漢学をやっていないから、ああいう字になる。私はあれは下手だと思っています。 気持ちは表れるけれども、やっぱり下手だと思う。変動期にはああいう字が出るんです。例えば秀吉も下手です。百姓で何にも教わらないから仮名で書くんですよ。 それで、戦国時代と維新の時代の字は、非常に読みにくい。なぜかと言うと江戸時代は御家流というので書いた。御家流というのは私たちは読めないけど、一回教わるとどんなに難しい字でも読める。 ところが、幕末維新の元勲たちはそういう教育とは無関係で、みんな下級武士だから教わっていない。そして元気だけあるから、バーッと書いちゃう。 |
||
中村 | うまい下手は、何がうまいかと考えることによってかなり違うでしょう。 |
||
森田 | 天心に関しては、いろいろな意味で天心ぎらいと天心びいきの二派に分かれますね。彼の字が好きか、きらいかというのも、一つのポイントになる。天心ぎらいの人は天心の字もきらいますね。
|
||
|
|||
編集部 | その後、十一歳のときに横浜から東京に移り、そして東大に入る。その翌年にアメリカからフェノロサが東大へ赴任する。天心はフェノロサから相当影響を受けていると思いますが。
|
||
森田 | フェノロサと天心の関係は、フェノロサがイニシアチブをとったとみなされてきました。 ある段階で二人の関係は変わりますが、どうも最初から、天心なり九鬼隆一なりの文部官僚側がイニシアチブをとって美術学校の路線をつくっていったという中村さんの説は、非常に説得力があるように思うんです。 |
||
編集部 | 奈良・法隆寺の古社寺調査で、秘仏の救世観音を見るときは、天心とフェノロサが一緒にまわっていて、非常に感動したことは、よく知られていますね。
|
||
中村 |
日本に来て東大で教えるようになってから、東大第一期生はわずか七人ですから、そういう中で、岡倉とフェノロサは、感覚的に非常に近づいたと思いますよ。 で、岡倉自身はもっと若いころから、自分は古物が好きだったと書いているし、フェノロサが来たころは、すでに漢詩もつくっている。 フェノロサは日本語がまったく読めず、日本美術のこともほとんど知らなかったんです。けれどもエドワード・モースとか、いろんな人の影響によって日本美術に興味を持った。そのときに、いわば岡倉と出会った。年は違うけれども、岡倉の英語力と表現力によって、美術に関して二人は同志として成長してゆく。やはりそういうところがあったのではないか。 それはお互いの師弟関係もありますし、手紙も残っています。後に実際に美術学校をつくっていく段階での二人の関係は面白いですね。 |
||
古社寺調査は岡倉がフェノロサを誘った
|
|||
中村 | 岡倉覚三が東京開成学校に入ったときの校長は浜尾新で、そのときから浜尾は岡倉の才能を見抜いていた。岡倉はその後、東大に入り、卒業して文部省官吏になるわけですが、そのときの岡倉の直接の上司は九鬼隆一と浜尾で、当時、九鬼は「九鬼の文部省」と言われるぐらいに力があった。九鬼−浜尾−岡倉というラインで、文部省による日本美術行政をやっていこうという考えが、岡倉たちにはフェノロサと出会う前からあった。
岡倉は学生時代が終わってすぐ、九鬼に従って古社寺調査に行きますが、その段階で岡倉がフェノロサを誘ったと思われます。フェノロサ自身興味があるわけですから、ものすごく勉強熱心ですよ。その中で、フェノロサと岡倉は日本美術をぐんぐん学んでいく。 フェノロサが変わってくるのは、来日して四、五年目に「美術真説」という講演をやったころからです。山口静一さんは、『フェノロサ』(三省堂)で、フェノロサは龍池会に利用されたと書かれています。 それに対して、青木先生はそうじゃないと批判されているんですが、私は、九鬼−浜尾−岡倉らがフェノロサを利用した面がないとは言えないと思います。 |
||
日本美術全体が洋風化されてしまう危機感があった
|
|||
青木 | 難しい。とにかく私はひどく政治的に解釈して、例えばフェノロサはお父さんが自殺している。自殺というのは、キリスト教徒としては非常に大きな罪で、ボストンの社交界の中ではひどく具合が悪いわけです。それでフェノロサはそこにいられなかった。しかも、そこの娘と仲よくなった。モースに、日本は暮らしいいと言われて。で、モースはフェノロサを連れてきたんです。
後の話だけども、そういう点で言うと、村形明子さんの訳したのは、本当に「美術真説」の原稿なのかどうか。 私はものすごくえげつなく見ているんです。それは、フェノロサは日本に居残りたかった。ところが、明治七、八年ごろから外国人をたくさん雇い入れて勉強したから、外国の本をすぐに読める日本人が育った。それで、大体明治十五、六年から二十年ごろまでに、外国から来た人は全部首になるんです。そういうことで言えば、フェノロサだって簡単に首にできたと思うんですよ。 恐らくは中村さんが言うように九鬼−浜尾ラインの一種国粋主義的な、洋風化現象に対する反動から、日本美術の優秀性をここで言わないと、日本美術全体が全く洋風化されてしまうという危機感みたいなものがあった。 そして何ということなく、ヨーロッパで例えば日本美術の浮世絵を印象派の人たちが喜んだとか、ウィーンの博覧会以来、日本美術をみんなが大切にしてくれる。だから、日本美術こそが世界美術の中で正当な位置を占めているべきだという論を、九鬼や浜尾が、岡倉の通訳を介して言った。で、フェノロサがノートしたのが残っている。 |
||
フェノロサは利用されるだけされて帰らざるを得なかった
|
|||
中村 | 私もそれぐらい考えられると思いますね。これは東京美術学校創立から、今の芸大にいたる歴史の中で、一番押さえておかねばならない問題だと思います。お雇い外国人のフェノロサは、日本美術を単なる方法としてじゃなく、やっぱり本当に好きになったと思う。ところが、限界があります。最後まで彼は日本語を読めなかった。
そうすると、通訳というのは、こちらが手玉にとろうと思ったら両方とれるんです。例えば伊藤博文が鑑画会の展覧会に来た。フェノロサは、こうこうと絵の説明をしている。そのときに、これは半分冗談ですが、「フェノロサ先生は、早く東京美術学校をつくれと言っています」とか言うこともできるわけです。いわばフェノロサを利用した側面があったと思う。 和辻哲郎が回想していますが、のちの東京帝大における岡倉先生のアジテーションは我々にとってはいいアジテーションであったと。だから岡倉の言う「造化と妙を争う」美術は、西洋とか東洋とかは関係ありません。日本人の今の存在の中で、本当の美術とは何か、芸術とは、書とは、絵画とは何かということを政府に実践させるための方策として、岡倉はあらゆる戦略戦術を使った。浜尾も九鬼もですね。 見方によれば、でも、フェノロサは利用されるだけ利用されて、帰らざるを得なかったと言えるかもしれない。それで帰った先のボストンは、また離婚した人に対して厳しい。その後、彼は世界を放浪している。 |
||
政治的人間に対して鋭い感覚
|
|||
森 | もう一つ、ここで押さえておきたいのは、明治十五年に岡倉は二十歳。明治の人はここまでの戦略的なことがとれる。
|
||
中村 | 例えば洋画派の小山正太郎に対する岡倉の論文を読めばわかるでしょう。「書は美術ならずの論を読む」ですが、その最後に、漢詩を書いています。「小山君、僕とあんたはもう勝負がついている。二十年後に、僕とあんたはこのことをどういうふうに思うか。楽しく酒を飲みたいもんだ」と。
しかも岡倉自身、当時『史記』をものすごく読み、学生時代に漢詩集を出しています。その中で魏の曹操は我が弟とか、秦の始皇帝は我が何々とか、『史記』の中の政治的人間というか、そういうものに対する彼の感覚は鋭かった。 |
||
青木 | 小山とやったのは何年? |
||
森 | 明治十五年。たしかそのとき、小山も二十歳そこそこ、ほとんど同じ年ですね。写真で見ると、二人ともほとんど童顔ですよね。
|
||
|
|||
青木 | それで、岡倉は伝統的なものを守ろうという意識が強かったんです。例えば書のことだけで言えば、それだけ彼は伝統的なものに力を入れようとした。小山は、字は上手だったけど、あんなものは捨てちまえという気分があったろうと思うんです。そのことだけで言えば、百年たってみると、日本では書は美術じゃない。中国では美術の中に入っているというところで、天心を今後どう評価していくのか。あるいは東洋の美術をどう評価していくのか。
|
||
森 | その基本にあるのは、天心は子供のときから横浜で外来思想に触れた。反対に小山は新潟から出てきて、しかも、洋風画・油絵にあこがれた。普通なら岡倉のほうが外来のものをどんどん取り入れていくはずなのに反対のことをやっている。
|
||
中村 | 岡倉は、古いものを大事にした。なぜか。それは現在の中で新しく創造するためです。未来に向かって創造するために伝統をいかに吸収し生かすか、それが彼にとってのモダンですね。つまり、自分たちの近代というものを表現しなきゃいけない。そのためには、自分たちにないヨーロッパのものを学ぶだけではだめだ。我々の中にあるものを大事にして、それを創造に生かす。過去の日本人にもなかった芸術を創造することが彼の一番の主眼だった。
だから東京美術学校をつくるときも、彼は戦略としてヨーロッパの鉛筆は必要ない、筆でよしと言う。 必ず、日本は西洋化してゆく。急ぐ必要はない。当時、もしかしたらヨーロッパから侵略されるかもしれないというときに、国家は美術学校を設立しようなどとは考えもしない。でもあのときに伊藤博文をだまして、というのは言い過ぎとは思いますが、金を出させて美校を設立した。これが岡倉の偉いところです。かつ、彼は単に過去だけを大事にしたんじゃない。だから彼は鑑画会で保守も批判し、激しい西洋派も非難して、中間にいかざるを得なかった。 |