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平成12年5月10日 第390号 P4 |
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目次 | |
P1 | ○「カラス」 高橋千劒破 |
P2 P3 P4 | ○座談会 岡倉天心と近代の日本美術 (1) (2) (3) |
P5 | ○人と作品 押川國秋と『十手人』 藤田昌司 |
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座談会 岡倉天心と近代の日本美術 (3)
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青木 | 創造のための運動なんだ。ただ、非常に残念だけれども、日本美術院の運動は失敗したんです。伝統と無関係なものしか残せなかった。
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編集部 | 天心は明治十九年に美術取調委員として欧米に出張し、アメリカからの帰りに九鬼隆一夫人の波津子と一緒に帰ってきます。
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中村 |
私は、今まで言われているように、一か月近い船旅が、いわば二人が男と女として出会う空間になったと思うんです。ただし、二人はそれ以前から面識はあったはずです。 波津子は結婚の前から、九鬼との結婚を拒否していた。けれども、九鬼としてはアメリカ行きのことがあって、これは当時としては天皇の命令に近いものだから、行かざるを得ないし、奥さんがいないわけにはいかない。いろんな理由があるんです。 波津子は毎年、子供を産んでいます。アメリカでも三郎という子を産んだ。日本へ帰ってくるときにも、後に哲学者になる九鬼周造をみごもっていた。九鬼に対する波津子のいろんな嫌悪感が、岡倉の女性に対する理解と通じ合うところがあったと思う。 こうして岡倉一雄が後に書いているように、二人は帰国後も、また九鬼隆一が帰国した後も、波津子が岡倉にいろんな相談をするというような形で、急速に親しくなっていった。 |
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天心を理解する一つの鍵は「フェミニスト」
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森 | それは岡倉覚三と基子との結婚の関わりとよく似ているんじゃないですか。 |
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中村 | 基子とのことについては、一雄さんは、息子として両親の結婚については言いたくないことがある、と書いている。 岡倉が十六歳で基子が十三歳の、いわば学生結婚ですから。私の勝手な想像ですが、当時、覚右衛門は東京で旅館を営んでいて、そこに手伝いみたいな形で基子が来ていたのではないか。 覚右衛門が早く孫の顔を見たいから、二人をくっつけたというだけではなく、別のことがあるのかもしれない。 |
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森田 | 同じ家にいたんだから、基子がみごもった可能性もある。基子の結婚は、天心の憂うつさの出発点になっているように思います。
天心の写真は、美術学校以降のものが多いですが、どれも、憂うつな顔をしている。ああいう顔は、一体どこから出てきたのか。結局、女性問題ですね。 |
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中村 | 岡倉は非常に魅力的な男です。ごく普通の女性には彼はわかりませんよ。 |
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森田 | インドの女流詩人バネルジー夫人とのプラトニックラブにしても五十歳で、あれだけすぐれた外国人の女性を一目で引きつけるものがあるんですから、大変な魅力を持った人だと思います。フェミニスト(広義の)というのは天心を理解する一つの鍵じゃないかという気がします。
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中村 | 星崎波津子とのことはいろんな資料が残っていますから、これからいろいろはっきりしてくると思います。ここで一つ言っておきたいことは、松本清張が、『岡倉天心 その内なる敵』で書いた内容は、私は徹底的に批判しています。彼ほど文壇で力のあった作家が、まったくといっていいほど調べもしないで新資料をさかなにして伝聞と憶測を繰り返し、岡倉と波津子の像を捏造している。美術史の問題としても本当に困るんです。
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森田 | 天心ぎらいが前提になって、権力欲の強い野心家とか、宮川寅雄さんの評伝あたりから出ますね。 |
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青木 | 九鬼周造は随筆集の中で、下谷の根岸に住んでいた波津子を岡倉がよく訪ねてきたと書いている。九鬼周造は岡倉を父親のように思っていたんですね。
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編集部 | ところで、狩野芳崖は岡倉と東京美術学校の開設準備をして、その開校を待たずに亡くなる。その芳崖について。 |
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青木 | 私は、前から芳崖のことを書けって、いろんな人に言って歩いているんです。 川崎市麻生区の法雲寺にある「慈母観音図」は、狩野探幽筆ということになっていますが、これは探幽より後のもので、探幽自身が描いたものではなく、探幽の写しだろうと思うんですが、少なくとも江戸時代のものです。そしてこれは芳崖の「悲母観音」に非常に似ているんですね。 |
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編集部 | この絵が法雲寺に入ったのはそれほど古いことではないようですが。 |
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青木 |
私は随分前から、これのことを言っているわけ。ごく最近、古田君という若い研究者が、「悲母観音」の今までのいろんな観音像を挙げてくれたのが去年、『MUSEUM』に載ったんです。でも、彼は法雲寺の絵は無視した。 これを入れると、ものすごく問題がめんどうになるんです。例えば、狩野芳崖の独創性の問題にもかかわってくるし、フェノロサの指導みたいな問題とか、あるいはヨーロッパの絵の具を使ったとかいう問題にも入ってくるから。 |
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中村 | 面倒なところをやってほしいですね。 |
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青木 | これで言えば、例えば呉道子とか何とかというよりは、現在芸大にある「悲母観音」像に非常に似ているんですね。こういうふうに浄瓶から生まれてくる赤ん坊をお祝いするといったような感じの絵が現実に探幽という名前で伝わっていたということは問題を提起します。
例えば法雲寺のを見なかったとしても、このような図像を考えるということがあり得るんです。 |
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芳崖に妊娠中の星崎波津子を会わせている
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中村 | 岡倉は星崎波津子とアメリカから一緒に帰ってきた。けれども、明治二十九年に、岡倉はヨーロッパ旅行日記のあいているところに、星崎波津子とのことだけではなく、自分のこの十年来の過去を振り返っている。
そこに書かれていることから推定すると、岡倉は帰ってきたときすぐに、芳崖に妊娠中の星崎波津子を、一度会わせている。これは九鬼隆一が帰ってくる前、十一月段階で会わせている。その後、出産してから、もう一度会わせている。 これは別に岡倉のメモだけではなくて、由三郎は岡倉が死んだ後に、D氏夫人、つまり九鬼、たぶん男爵のDだと思うんですが、D氏夫人との間には、兄個人だけではなく私もまた関わりがあり、と同時に狩野芳崖の「悲母観音」を見ても、それははっきりしている。いずれ書く機会があれば書きたい。しかし、この世はままならぬ、と書いていますが、結局、そのまま亡くなった。 私は書いたものがあるのではないかと思っていますが、岡倉は、芳崖に星崎波津子を会わせている。この絵を描いているときにです。その後に芳崖は死んだんです。 |
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青木 | 「悲母観音」に星崎の影を見るなどというのはナンセンスです。 会わせているから「悲母観音」と言われているものが、星崎波津子ということはない。 |
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中村 | もちろんです。 |
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森 | その絵は芳崖より後という可能性はないんですか。 |
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青木 | それはまずない。芳崖に先行する画像です。少なくとも芳崖の絵を見て、誰かが探幽という名前で描いたんじゃないと思うな。
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編集部 | 天心は明治の末年になって、また横浜と関わりがでてきますね。岡倉と原富太郎との関係はいつごろから始まったんですか。
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青木 |
もちろん、それ以前から下村観山や横山大観の作品を購入しているから、当然付き合いはあったろうね。野毛の老松町に原さんの家があって、そこに先代の善三郎の銅像を東京美術学校が依頼されてつくり、明治三十三年の除幕式に岡倉が出席し、演説している記録がある。 当時、発足したばかりの日本美術院は資金難だから、各地で展覧会を開いている。横浜でも、明治三十二年に横浜倶楽部というところで美術展を開いているから、新進画家に援助するかなり前から、交流はあったと思う。 |
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編集部 | 最後に、岡倉の「アジアは一つ」という有名な言葉についていかがですか。 |
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中村 | 『東洋の理想』の冒頭にあるんですが、この言葉は日本の軍部や、当時の言論人らに悪用されて、いわゆる十五年戦争を聖戦化するスローガンとして使われた。しかしインドの土を踏んだ岡倉の脳裏にはアジャンタの石窟、中国の龍門の石窟、さらには朝鮮半島から奈良、京都にいたる仏像が去来していたはずで、長年の実地踏査と研究の中から生まれた一句であったと思います。
結論だけ言いますと、仏教美術を生み出したアジアの芸術家たちへの畏敬の念と同時に、西洋美術の作家たちにも敬意を払い、アジアとヨーロッパがともに美術を創造しようとするとき、自筆メモにあるように‘We are one’という言葉が、おのずから生まれ、またそう願っていたんだろうと思います。 |
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編集部 | 本日はどうもありがとうございました。 |
あおき しげる |
一九三二年岐阜県生れ。 |
著書『明治日本画史料』中央公論美術出版15,750円(5%税込) 他。 |
なかむら すなお |
一九四七年福岡県生れ。 |
著書『美の復権』邑心文庫3,990円(5%税込) 他。 |
もりた よしゆき |
一九四八年神奈川県生れ。 |
著書『メディチ家』講談社現代新書924円(5%税込) 他。 |
もり のぼる |
一九四七年静岡県生れ。 |