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平成12年10月10日 第395号 P2 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 新聞と神奈川 (1) (2) (3) |
P4 | ○夢窓国師像のまなざし 岩橋春樹 |
P5 | ○人と作品 山崎光夫と『サムライの国』 藤田昌司 |
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座談会 新聞と神奈川 (2)
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篠崎 | 日本が開国するときに、外国の新聞を幕府が翻訳させるという動きがありますね。 |
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鈴木 | 蕃書調所(ばんしょしらべしょ)ですね。 |
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春原 | 洋学所が安政三年(一八五六)に改称されて蕃書調所になる。もとは天文方、気象所です。天文は船の航海などいろいろ戦略的に一番大事なんですね。ですから世界的にそういう所から科学が発達してくる。暦もそうです。それをやるために外国語を学ぶ必要もでてきて、学校にもなる。学校になると、それを監督するために、今の文部省に似た役目が全部そこに行った。れが天文方、それから蕃書調所にくる。
日本は、オランダ船が毎年来航すると、向こうの船員の名簿、残留する人は誰、帰る人は誰といった名前と数、それから積み荷をきちんと報告させた。そのほかに幕府は、世界の情報を知らせてほしいとオランダに言って『和蘭陀風説書』ができるわけです。初めは長崎で翻訳をしていました。そして阿片戦争あたりからアジアの情報が多くなってくる。
新聞は、何日分かがまとめてきますから、とても長崎では翻訳なんかできないわけです。そこで、江戸に持ってきて蕃書調所で翻訳した。これはバタビヤ(ジャカルタのオランダ領時代の呼称)のニュースだというので『官板バタヒヤ新聞』とした。それが文久二年(一八六二)です。 これを萬屋兵四郎という町の本屋さんが出している。読める人は少なかったと思いますが、幕府はこれを各大名にやっているんです。鎖国のマイナスを少しは押さえよう、海外の事情を知らないと大変なことになるというので、やったと思うんです。 |
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篠崎 | 安政六年(一八五九)に横浜が開港して居留地ができますが、居留地の新聞の動きもありますね。
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鈴木 | 日本で最初に発行された商業的新聞、つまり、定価がついて、活字で印刷されて、販売代理店があるという近代的新聞の一つの要件を満たしたものが一八六一年六月に長崎居留地で出た『ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドヴァタイザー』です。
『ジャパン・ヘラルド』の発行者、ハンサードという名は英国議会報告の題号を連想しますが、実際、彼は、その印刷を始めた由緒ある印刷人ハンサード家創業者の孫にあたります。彼は、なぜかニュージーランド経由で来日し、長崎、続いて横浜で英字紙を発行します。 |
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横浜の貿易状況を密に報告した『日本貿易新聞』
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鈴木 | 当時は『ジャパン・ヘラルド』や、その前後の一八六○年代前半に出る『ジャパン・コマーシャル・ニュース』が蕃書調所で翻訳されて出されています。
特に『ジャパン・コマーシャル・ニュース』はポルトガル人のF・ダ・ローザが発行し、百数号のほとんどが『日本貿易新聞』という名前で筆写・翻刻されています。二年半ほど続き、当時の横浜の貿易状況をつぶさに報告しています。 もちろんそれ以外に『ジャパン・ヘラルド』は、たとえば生麦事件の報道とか、あるいは『日本貿易新聞』は下関砲撃事件の報道といったように、見るものはたくさんありますが、『日本貿易新聞』(『ジャパン・コマーシャル・ニュース』)が一番長く翻訳されたということは、一般的にいって、やはり商業的な情報が多く載っていたということだと思います。 |
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横浜三大英字紙『J・ヘラルド』『J・ガゼット』『J・メイル』
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鈴木 | そして明治期に入ると、『ジャパン・メイル』という新聞が一八七〇年に横浜で発行される。一方『ジャパン・ヘラルド』でハンサードと一緒に働いたことがあるジョン・レディ・ブラックがその後『ジャパン・ガゼット』(夕刊)という新聞を出す。彼の息子は快楽亭ブラックといって、日本で最初の外国人の落語家になり、日本で最初に蝋管レコードに吹き込んだりした著名な人です。
『ジャパン・ヘラルド』『ジャパン・ガゼット』『ジャパン・メイル』が幕末から明治初期にかけての横浜三大英字紙といわれます。
つまり、それまでにも横浜には英字新聞が出ていたけれど、彼自身は『ジャパン・ガゼット』を出して、新しい道を歩むことを考えていたようなんです。 ハンサードにしてもブラックにしても、後にいろいろいわれるほど、新聞を発行するために日本ヘやってきたわけではなかった。『タイムズ』を発行したウォルター家の人も、別にジャーナリズムを社会に広めようというわけではなかったんです。 春原先生もいわれたように当時としては新しい情報がたまたま英字新聞なり外国の新聞だったので、ニュースのもとが外国であったというだけなんです。それが認識され始めて、いわばニューメディアとして英字新聞が居留地の中で発行されて、それで彼らが商業的に成功したかというとほとんど成功していない。大方は、領事館からの助成金が頼りだった。 居留地には何千人の単位で外国人がいたわけではないので、せいぜい発行部数は数百部です。ただ、同時期に日本人が発行した新聞や日本人向けの新聞よりは購読者の数は多かった。だけど、それだけで成功するわけではなくて、印刷人としていろんな印刷物を刷ることが主流であって、新聞はあくまでもワン・オブ・ゼムの仕事だったと思います。 |
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日本を世界に知らせるために、英字紙の役割は大きかった
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春原 | 私は、ブラックが新聞でやったことは割と功績があると思います。 新聞の郵送制度とか鉄道の割引制度は、たしか彼が一番先に出願して実現している。自分の新聞は明治五年になってからですが、新聞をこれから送るけれど、できるだけ安くしてほしいというのが認められてずっと続くわけです。 それからもう一つ。初めは日本の政府は、対外的に日本を知らせるために、英字紙をかなり活用しようとした。 明治になって、『ジャパン・メイル』は、政府が買い上げて、海外の公館へ送ったりしている。そういう意味でも日本の英字紙は居留地だけじゃなくて、海外へもいろいろ知らせる役割を果している。 現在、『ナガサキ・シッピング』はイギリスのロンドンに、一号、二号以外は全部そろっている。だから、日本を世界に知らせるのに英字紙の役割は非常に大きかった。 ただし、『ジャパン・メイル』は日本の台湾出兵に反対したので、そこで買い上げは取りやめられています。しかし、その後も、中には条約改正に反対して政府と対立する新聞もありますが、割と明治の藩閥官僚や政治家は、ちゃんと海外に目を向けて、英字新聞などを使ってやっていると思う。 |
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外国の考えを英字新聞を通して身につけた人たち
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鈴木 | 三大英字紙の前に、現在の『ジャパン・タイムズ』とは関係のない『ジャパン・タイムズ』が一八六○年代の半ばにありました。それがアーネスト・サトウの『英国策論』を掲載して、六○年代の横浜の下級武士、つまり最終的には幕府を転覆させるのに大きく寄与をした人たちが、幕末から開国に至るまでの過程で、原文自体や、翻訳されたものをよく読んでいたことが、日本人の方の文献で出てきます。
そういう意味で言うと、外国の考えを英字新聞を通して身につけた人たちの動きが出てきたところがある。 |
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春原 | 『英国策論』は各藩で翻訳したので、筆写本とかいろいろあるんです。博物館で飾ろうとしたら、同じようなのが二つも三つもあって、どれが本物なんだろうって。みんな本物なんです。
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篠崎 | 居留地ではジョセフ・ヒコがかなり活躍していますね。民間の日本人で最初に新聞を発行した人ですね。
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鈴木 |
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篠崎 | ヒコの情報源はどこにあったんでしょうか。 |
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鈴木 | イギリスやフランスの新聞ですね。そのほか領事館など、自分のルートでも情報を仕入れています。港はある意味で人が集まる。ヨーロッパでも同じです。長崎の次は横浜で、横浜の後に、実は神戸でも幾つか新聞が出る。ヨーロッパのほかの所でも、最初に入植した所、次に入植した所と新聞が出る。
その新聞で一つ面白いのは外国からのニュースというのは船が運んでくる新聞です。その新聞をいかに早く手に入れて、切り抜いて、翻訳して載せるかというのは、ある種の日本の新聞のニュース、情報網みたいなことになるんですね。 |
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篠崎 | たとえば『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』などを読んで翻訳して出していたんでしょうか。
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鈴木 | 「ロンドンからの新聞」とかいう言い方をしている。 |
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春原 | どこの新聞だかはわかりませんが、「英国の飛脚船によりて得た」とも書いている。 |
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鈴木 | 一八六○年代というと、情報が発生して実際に日本に伝わるまでに、早くて二か月、遅くて四か月ぐらいかかるころですから、確かにタイムラグはあった。
それで、ヒコは船乗りですから、きちんとした日本語ができなかったので、ヘボンのところで『和英語林集成』の編纂を手伝っていた岸田吟香の協力を得て一緒にやった。 |
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組織としては未成熟だった六、七○年代の英字紙
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鈴木 | 六、七○年代の最初に日本で発行された英字紙や新聞は、組織としてはまだ未成熟であった。それが明治一けた代になると、ブラックが一八七二年に出した『日新真事誌』あたりから新聞社、いわば企業として活動する形を見せ始める。
つまり、その前は、印刷人が新聞を出す形で、その人が発行者・新聞記者であり、エディター、パブリッシャー、ジャーナリストという役割が全部入り交じっていた。 |
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経営者と新聞記者などの分業化は明治二十年代から
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春原 | 『郵便報知新聞』というのがあって、これは郵便を利用して、ニュースを集めて、それをまた郵便で送る。だから、郵便報知は日本最初の全国紙だといっているんです。地方のニュースが入ってくる。つまり郵便を利用する人がいないから、これを利用した。
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鈴木 | そうですね。この新聞はかなり肝煎りというか、官的な役割から出たこともあって、組織的にはよかったんでしょうが、そういうものがまだ未成立のとき、ハンサードが印刷一族につながっていたように、印刷人が新聞の発行者であり新聞記者であり、それが分業化してくるんですね。
明治二けたぐらいまでの新聞は、春原先生もパーソナルジャーナリズムと呼んでいらっしゃいますが、ある傑出したライターが一人である新聞を持っていて、それでぐんぐん引っ張っていくとかいうのがあって、組織化するにはまだ区分があいまいだった。 印刷人が印刷専従になって最初に分かれ、ジャーナリストとか新聞記者の誕生はもっと後です。それが次に、エディターとジャーナリスト、パブリッシャーという会社の経営なり、編集者を別にするのは、さらにもっと後です。その分業は日本では明治の二十年代あたりからですね。 |
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販売先や読者を考えてつくった『万国新聞紙』
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春原 |
というのは『官板バタヒヤ新聞』は外国のニュースをそのまま翻訳して、国別に出しただけだから、これは翻訳ですね。ヒコのもそういうところがあって、日本人に面白そうだというのは、そんなになくて、読者がそうつかなかったんじゃないかなと。 それからもう一つは、ヒコの場合は販売を考えていません。どこで売るとかは考えていません。ところが、その後の『万国新聞紙』は、二号から、これはどこで買いなさいと出ています。 掲載内容も、日本は新聞を読んで、文明を開化しなければいけない、そのためにというので、イソップの話や聖書の教訓話が出ていたり、海外の旅はどういうふうにして行くかとか、まさに読者を考えてつくっている。それから海外のいろいろな相場や値段、『コマーシャル・ニュース』はまさにそうなんです。私は『万国新聞紙』は内容的に非常にかっているんです。 |