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平成12年10月10日 第395号 P5 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 新聞と神奈川 (1) (2) (3) |
P4 | ○夢窓国師像のまなざし 岩橋春樹 |
P5 | ○人と作品 山崎光夫と『サムライの国』 藤田昌司 |
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人と作品 |
エピソードを掘り起こし、虚実縫い合わせて新しい人物像を構築 山崎光夫と『サムライの国』 |
乃木将軍に親炙していたマッカーサー 近現代史の中から有名人の知られざるエピソードを掘り起こし、虚実を被膜で縫い合わせてストーリーを構築する 山崎光夫氏の手法は、『藪の中の家・芥川自死の謎を解く』以来、定評がある。表題作など五編を収めた『サムライの国』 (文藝春秋)も、その醍醐味を堪能させてくれる。
「マッカーサーは、そういう演出が好きだったんですね。“アイ・シャル・リターン”の言葉どおりフィリピンに 戻って来たときも、上陸用舟艇を水ぎわで降りて、膝まで水につかりながら上陸している。厚木基地に降り立った ときはサングラスにコーンパイプ、開襟シャツに丸腰です」 しかしこの作品は、そうしたマッカーサーの演出癖を主題としたものではない。まるでゴルフにでも行くような 軽装で“敵地”日本に降り立ったのは日本の“武士道”を深く信じていたからだというのだ。そしてその武士道の 核にあったのは、乃木希典将軍への親炙だったという。〈武士道の鑑とでもいうべき人物。わたしはかれにサムライの 典型を見た。わたしは日本に来たのではない。乃木の国に降りるのだ〉と作者はマッカーサーに独白させている。 「マッカーサーは陸軍士官学校を卒業したての、まだ若いころ、日本に来て、乃木将軍と会っているんです」 日露戦争直後のことだという。そのときの乃木の言葉−「……兵器は弾が切れれば終りです。戦場で唯一、 頼りになる持ち物は精神です」や、ステッセル将軍と水師営での会見について「……戦いが終れば同じ人間です。 ……礼儀をわきまえ、友誼を示し、敵を迎えるのは当然といえます。勝って傲らず、負けて卑屈にならず。特に 敗将を恥かしめてはなりません」などに感銘をおぼえたというのだ。その他さまざまな占領秘話が盛りだくさんで 興趣がつきない。 「うたかたの舞」には、ベルリン留学時代の森鴎外を中心に医学生片山国嘉、建築家片山東熊などが登場する。 国嘉が帰国後所期の目標どおり日本に裁判医学を確立し、また東熊が日本赤十字病院や赤坂離宮(迎賓館)を 建設したのに対し、鴎外は自我と国家との違和感に悩んだ末、ベルリン時代の体験をもとに小説を書くまでの屈折が 描かれる。「ベルリンへ行って、鴎外の歩いたところは全部たどってみました。鴎外はそこで乃木とも会っているんですね。 そういう意外性が好きです」 コナン・ドイルと激論を交わした北里柴三郎
しかし意外性といえば「シャーロック・ホームズの日の丸」で書かれている北里柴三郎とコナン・ドイルの
出会いである。近代細菌学の父ローベルト・コッホの門下生だった北里が、かの「シャーロック・ホームズ」の
作者コナン・ドイルとベルリンで会ってツベルクリンの薬効について激論を交わしたというのだ。「コナン・ドイルは
医者ですから、コッホがツベルクリンによって結核の治療に成功したと発表したとき、疑問を持ってロンドンから
乗り込んで行き、いろいろ調べているんです。そのレポートは“ザ・レビュー・オブ・レビューズ”誌に掲載されています。
コッホは当時、世界一忙しい男でしたから、ドイルのインタビューには応じられなかったと思いますが、その代わり、
四天王の一人といわれた弟子の北里が応対した・・というのが私の解釈です」
(藤田昌司)
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