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平成12年10月10日 第395号 P4 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 新聞と神奈川 (1) (2) (3) |
P4 | ○夢窓国師像のまなざし 岩橋春樹 |
P5 | ○人と作品 山崎光夫と『サムライの国』 藤田昌司 |
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夢窓国師像のまなざし |
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夢窓は鎌倉時代から南北朝時代に生きた高名な禅僧である。北条高時、後醍醐天皇、足利尊氏・直義(ただよし)兄弟ら、 当時の最高権力者に深く帰依され、その顧問としての役割を果たしたほか、多くの優れた弟子を出し、その法流は 夢窓派として大いに繁栄した。また、芸術的天分にも恵まれ、とりわけ造庭に優れた才を発揮した人でもあった。 建治元年(一二七五)の生、観応二年(一三五一)示寂、世寿七十七歳。本年が六百五十年にあたる。 閑居安住の場として愛した瑞泉寺
花の寺として知られる瑞泉寺は嘉暦二年(一三二七)夢窓五十三歳の時、同族ともいわれる二階堂貞藤[道蘊(どううん)]の 外護を得て開き、閑居安住の場として愛した寺であった。そして、後背の山をとりこみながら岩盤を穿って庭を 築き、山頂に亭を設けて遍界一覧と命名する。北条高時はじめ、周囲の再三にわたる懇請により、やむなく円覚寺 住持となってその経営雑事につとめることがあっても、任を果たすや直ちに舞い戻るのは、この瑞泉寺なのであった。 黄梅院は、示寂の後、京都のほか鎌倉においてもいとなまれた塔所で、円覚寺境内の最奥部に位置する。鎌倉の 夢窓派の本拠として、後には足利氏由緒寺院としても機能した。当然のことながら、黄梅院に直接の足跡がのこされて いるわけではない。 一般的な禅僧と異なる夢窓のイメージ 現在、筆者の勤務する鎌倉国宝館では、「瑞泉寺と黄梅院・夢窓国師の足跡・」と題して、特別展を開催中 (九月二十八日から十月二十九日まで)である。その趣旨は鎌倉の夢窓であり、瑞泉寺と黄梅院の伝世品による 禅僧夢窓のイメージ構築である。 従来、禅僧関連の展覧会はしばしば経験しており、展示構成の要領も承知しているつもりであったのだが、今回は これが思いのほか難事で、夢窓という人について、あらためて考えさせられるところがあった。 禅僧の遺品は、墨蹟などその典型であるように、技術的巧拙よりも精神的な集中力、鋭い気魄といった要素を 身上としており、その特質を生かすべく、展示は少数精鋭に徹して斬れ味を鋭くする必要がある。これが勘どころである。 いたずらに展示品の数を増やす必要はないし、だらだらと周辺資料を並べて説明に流れるのも、感心しない。 彫刻でも絵でもよいから、まず肖像を一点、それに墨蹟を一、二点、いずれもこれぞという作を選んで、程よい 間合いに配置する。そして、何か小さな器物でもアクセントに添えてやれば、それだけで見事な精神空間が成立する。 基本的考え方はこうである。 しかし、このたびの夢窓に限っては、いささか勝手が違って取り扱いにくく、どうも当館の常套手法では、 しっくりこないのである。だからといって、存在感が希薄だというわけでは決してない。ただ、夢窓については、 真っ向から禅僧イメージをもって対するのではなく、いま少し別な切り口を用意するのがふさわしい。遺品に徴するかぎり、 禅僧としての資質が余人にやや異なっているようであり、例えば肖像にもそのような風趣が見てとれるのである。 面貌に漂う一抹の翳は何故か
だが、忌憚なくいえば、禅僧の風貌としては内省的に過ぎ、どこかおさまりが悪い。そして、あまりに人間 ありのままの表情があらわにされ、しかもまなざしに一抹の翳を漂わせているのは、何故なのだろうか。 これは夢窓の画像についても指摘されることで、特に椅子に坐した全身像形式の遺例の多くに、妙に暗鬱な 気分が見え隠れするのである。像を拝した時、見かけの柔剛にかかわらず、我々の心に無言の一喝を加える迫力、 その意味でのリアリティを頂相にはもとめたいのだが、こと夢窓像に関しては、それは十分には果たされない。 表現の質がヒューマニスティックなのである。 京都で制作され鎌倉へ運ばれた瑞泉寺の夢窓像
日本独自の禅を京都に確立 夢窓について、時勢を見るに敏で、早い時期から北条氏と鎌倉に見切りをつけ、京都進出の機会をうかがって いたという、手厳しい批評もあり、確かにそれも一面であろうが、最大の功績として、日本独自の禅を確立したことは 述べておく必要があるだろう。 その構想を一言でいえば、北条氏が積極的に受容し、育成した中国直系の鎌倉禅を朝廷周辺、公家階級が基盤と なって、ゆるやかに受けとめられていた京都禅に流し込み、京都の地に新たな展開をはかろうというものであった。 法系上、夢窓は、北条時宗によって宋から招かれた無学祖元(むがくそげん)の孫弟子にあたるが、日本の禅僧としては第二ないし 第三世代に属し、もはや時代は日本独自の禅を確立せねばならぬ段階にあること、それが夢窓自身の役割であること を自覚していた。中国への留学経験が当然とされた風潮のなかでも、夢窓は中国へ渡っていない。天台・真言兼修禅を 容認する包容力もあった。断固とした信念によって、禅宗の中心地を鎌倉から京都へ移し、天龍寺、やや遅れて創建 される相国寺が日本の禅林の中枢となり、京都五山が開花する。 京都風になびかなかった鎌倉の禅林 京都に転じた夢窓が鎌倉をふりかえる時、どのような想いをいだいていたか、知るところはない。それでも、 さまざまに鎌倉に向けての心配りを忘れていなかったことは確かである。 鎌倉幕府の滅亡後、北条氏という後ろ盾を失って存亡の危機に直面した鎌倉禅林は無事擁護された。特に、 北条氏得宗家の菩提所であった円覚寺など、それこそとりつぶされかねなかったにもかかわらず、退転を強いられ はしなかった。新政権が直ちに円覚寺の寺地安堵を証した絵図が現在ものこされている。その陰には夢窓の要路への 進言があったはずであり、また要請を実現させる政治力を備えていた。 とはいえ、大局的には、鎌倉禅林は京都禅林の後塵を拝することとなった。地位の逆転である。その事実は みとめるとして、鎌倉びいきの我々にとって救いとなるのは、鎌倉禅林が安易に京都風になびかなかったことである。 京都とは異なり、鎌倉には公家階級が存在しないという社会構造の相違もあったが、生真面目で質実な鎌倉禅は、 禅の根源の地という矜持を捨て去ることはなかった。夢窓がそれを停滞と見たか、はたまた快哉としたか、これもまた 難しい問いといわなければならない。 |
いわはし はるき |
一九四六年名古屋生れ。 |
鎌倉国宝館副館長。 |
共編『日蓮聖人註画讃』角川書店(品切)。論文「遊行上人縁起絵巻」−『仏教藝術』ほか。 |