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平成12年11月10日 第396号 P1 |
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目次 | |
P1 | ○定年後の「かきくけこ」運動で快適余生 大島清 |
P2 P3 P4 | ○座談会 三渓園と原富太郎 (1) (2) (3) |
P5 | ○人と作品 田中祥夫と『ヨコハマ公園物語』 藤田昌司 |
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定年後の「かきくけこ」運動で快適余生 |
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このイメージや想像力を生み出すのが情緒なのである。三年前、京大創立百周年記念として「京都大学の世紀」が 刊行された。そのとき寄稿を依頼されて書いたのが「情緒を取り戻せ」だった。その中で私はこう強調している。 「それにしても現代は、視覚ばかりに頼り過ぎていないか。幼いときから視覚情報だけで脳を快楽させる癖が ついていると、目に見えるもの、動いているものだけが生きものである、という錯覚に陥る。いわゆる仮想現実と 言われるもの。生命への尊厳の念が薄らいでゆく。生命を宿しているものは、うんと土くさくて、もっとドロドロ、 ヌルヌルした触覚をもち、嗅げば匂うし、口に含めば甘酸辛苦の味がする、といった風に原始感覚に充ちあふれて いるものだ」と。 何のことはない。情緒こそ人間性の基盤だ、と言っているのである。動物脳で作られる感情に巨大な人間脳の衣を かぶせると、情緒ができあがる。情緒の源泉は原風景だ、とよく言われる。ドストエフスキーも「カラマーゾフの 兄弟」の最終章でアリョーシャに、「少年時代から大事に保存した美しい神聖な思い出、それこそ、おそらく 最もすばらしい教育なのかも知れません」と言わせている。 私が定年後の終(つい)のすみかとして、鎌倉梶原の丘の家を選んだのも、私の生まれた広島県呉市の地形と類似していた せいかも知れない。 定年から十年の歳月が流れた。だらだら会議や実験室への閉じこもりから開放されて己れの情緒不足を補う 毎日を送っている。人間の脳というものは、外部からの情報を受けると、神経細胞につなぎ目(シナプス)を 萌芽させ、他の神経細胞とドッキングさせて回路を作る性質がある。幼少期にその傾向が強いが、年をとっても 受け答えは確かだ。加齢で肉体は老いるが、脳が若返るのはそのためである。それを念頭において、定年以降 「かきくけこ運動」をみんなに奨めている。そりゃ一体何だ、を語るのが本稿の目的である。「かきくけこ」の 行動を支えるのは、勉強で身につけた類(たぐい)の知識にあらず、自然に体内からわきあがってくる感性、つまり生命力と いってもいいだろう。 「か」は感動 すばらしい出来事に出合う、未知のからくりが解ける、会いたかった人に出くわす、どんな小さなことでも 感動のさざ波が全身を包み込むことで自他の境界がなくなった状態だ。感ずれば全身が動く。感動とは、どんな 小さなことでもいいから、日常生活の中にドラマを見つけることだ。あるいは自らをそのドラマの中に引き入れる ことだ。 私はよく市場へ行くが、そこで旬のものをいち早く見つけただけで胸が躍る。酷暑の夏が過ぎて秋風の吹く頃、 いつも行く豆腐屋で湯葉を見つけたとき、夏のはじめに信州の野尻でブルーベリーを見つけたとき、大げさに 絶叫しないまでも、片手を上げて「ヤッた!」と小さく叫ぶ。それも感動である。 一昨年の冬、人間の生理的生存限界である百二十二歳で他界したフランス女性、ジャンヌ・カルマンさんは、 常日頃、元気で長生きの秘訣は、「たった二つなのよ」と答えていたという。一つは笑うこと。笑いは一つの 感動の表現だ。そしてもう一つは、退屈しないこと、だった。 人類の誕生は今から四百万年前にさかのぼる。アフリカの北東部は、一千万年にも及ぶ火山噴火で砂漠化する。 私たちの祖先である類人猿は食べる、子を育てる、群れる、といった本能追求のため直立を余儀なくされる。 そのとき彼らの脳の重さはわずか四百グラム、私たちより約一キログラム減のちっぽけな脳だった。 でも四足歩行から直立二足歩行に移ったとき、視界は広がった。遠いまなざしの彼方に、四足歩行のときに 見えなかった水平線、地平線、そこから昇り、そこに沈んでゆく真っ赤な太陽、風にそよぐ木々。そのとき、彼らの 感動がみなぎって、その小さな脳に精神の蕾が芽生えたのだ、と私は信じている。まして私たちの脳は巨大だ。 感動すれば何倍にも心がゆらぐはずである。 「き」は興味
私は己れを「生涯一書生」と思っている。七十歳を過ぎようが過ぎまいが、わからないことはわからない。 だから耳を澄ませてわからないことを聞こうとしている、目で見ようとしている、肌で感じようとしている。 そうしている限り精神は老いることがないと思っている。 私は、定年後、興味を抱いて挑戦したことがいくつかある。チェロ、そば打ち、陶芸、山野草の押し花、マウンテンバイクと 水泳一日一・五キロ、「サロン・ド・ゴリラ」の開催(信州信濃町野尻)など。一つ一つを紹介する紙面はない。 そこでチェロのことを少し。 私は楽盲である。つまり音譜が読めない。縁あって海兵時代の同級生の娘さんが私の師となった。弦は心で 弾くもの、の教えに従って、今、童謡に挑戦している。そういう風景の無い現在、童謡は無意味、との暴言に 反抗する気持ちもある。まず「おぼろ月夜」から始めている。調べているうちに、作詞者が、わが「サロン・ド・ゴリラ」 野尻に近い豊田村出身の高野辰之文学博士と判明。早速現地を訪れたら、童謡の詩と同じ風景がそこにあって、 それこそ天を仰いで感動したのである。それはまさに、美しい自然と農村の風物が醸し出す詩情あふれる風景。 東京で学びながらの望郷の思いがこの童謡には込められていて、それこそ大感動。 「く」は工夫 近頃、すぐリセットボタンを押し続ける輩が増えた。一つやろうと思えば石にかじりついてでも追求するロマン性が 消退の一途をたどっている。物の溢れる時代ということもある。いつも明るく、いつも快適温度、そして何でも そろっている環境で、耐えることを忘却した人間がうようよ。DID(Dialog in the Dark)が要求される所以である。 「け」は健康 バブルで破壊された自然環境のしっぺ返しで、目に見えない環境ホルモンがしのびやかに人間社会から健康を 奪い始めている。土から生まれ土に依存してきた人間を含む動物たちの危機が世界を蔽っている。「土を忘れた 文明は亡びる」のひそみにならって、健康とは何かをもう一度考えねばなるまい。 そしてもう一つ、画一的な食性が文明国の人間たちをロボット化しつつあることを知らねばなるまい。少年たちの 犯罪も、家庭内の食性に起因すると私は考えている。旬のものを家族みんなでよく咀嚼して食べる。幼少年期の脳の 改造は、毎日の食性で変えることができる、と私は信じている。日本の歯科医の元祖である中原市五郎の言葉に耳を 傾けていただきたい。「夫れ食により各人の生命現象は営まれ、精神之に随伴す。食若し不正なれば病を呼び、 正しければ寿を呼ぶ。これ古今を通し一貫して類なき実相なり」 いい親子関係は、会話の弾む食卓から生まれてくる。 「こ」は恋心 まずは沢村貞子さんのこの言葉にご注目あれ。「ぼけ防止に必要なのは、友人・家族の愛もさることながら、 やさしい異性の愛がいちばん」 もう一つ、会津八一の弟子の歌人、吉野秀雄さんの詠んだ歌も。 「これやこの 一期(ご)のいのち炎(ほのお)立ち せよと迫りし 吾妹(わぎも)よ吾妹」 妻四十二歳、ガンで逝く前日、夫にまじわりを迫った様(さま)を歌で詠んでいるのである。 私が常に提唱している「性は生なり」。性はその人の生きざまそのもの。したがって、年齢は関係なし。いくつに なっても男は男、女は女であること、そしてセックスだけが性ではない、ということも肝に命じておく必要がある。 どうしても生きざまが合わないとなると、別れたほうがよいに決まっている。子どもがいれば、何故別れるかを 話すことも肝要。というわけで私はつい一年前に、今は三十歳以上になっている三人の子どもたちに告げて、その 母親と離婚、いま五十歳の妻と鎌倉に住んでいる。これが「かきくけこ」の終章となる。 |
おおしま きよし |
一九二七年広島県生まれ。 |
京都大学名誉教授。医学博士。 |
著書『定年後に若がえる生き方』講談社1,365円(5%税込)、ほか多数。 |