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平成12年11月10日 第396号 P5 |
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目次 | |
P1 | ○定年後の「かきくけこ」運動で快適余生 大島清 |
P2 P3 P4 | ○座談会 三渓園と原富太郎 (1) (2) (3) |
P5 | ○人と作品 田中祥夫と『ヨコハマ公園物語』 藤田昌司 |
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人と作品 |
4つの公園の生まれた経緯を明らかにした 田中祥夫と『ヨコハマ公園物語』 |
開港後政府の方針で公園を造営 ヨコハマは魅力的な公園が多い街だ。山下公園や港の見える丘公園など、市民の憩いの場になっている。市民だけでなく、 ヨコハマといえば公園と中華街を思い浮かべる日本人は多いはずだ。それらの公園はどのようにして生まれたか。
田中さんは早大理工学部卒後、横浜市役所入りし、都市整備局事業指導部長、港北ニュータウン建設部長、市建築保全公社常務理事 などを歴任、ヨコハマの街づくりを推進してきた。公園業務を担当したことはなかったそうだが、それだけに田中さん自身の“発見と驚き”も 伝わってくる。 たとえば井伊大老の銅像が横浜港を見下ろす掃部(かもん)山公園にあるのはなぜか。彦根の人たちが井伊大老の銅像をと 立ち上がってから二十八年かかり、政府に妨害され、三転、四転の末、ここに建碑されたという。 日本初の洋式公園としてオープンした山手公園が「生麦事件」の結果生まれたという経緯にも驚かされる。 「生麦は外国人が自由な通行を保障されていたところですから、外国人たちは怒っちゃった。そこで幕府は、東海道の 迂回路・大名用の新道を、今の小田急寄りにつくることまで決断したのですが、その時アメリカ公使プリュインから、 山手の丘の上を外国人行楽の地にしなさいという提案があって、とびついたわけです」 この公園にはテニスコートも造られ、日本のテニス発祥の地となる。また、今や日本中のどこでも見られる ヒマラヤ杉が初めて移植されたのもこの公園だという。 山手公園は当初、日本人は入園できない“彼らの公園”だったが、今、横浜スタジアムのある横浜公園は“彼らと 我らの公園”としてオープンし、彼我公園とよばれていた。外国人居留地と日本人町の境界に造られ、明治時代、市民が 憩える公園はここだけだったという。「幕府は開港日に間に合うよう、ここに遊郭を開設したのですが、それが 慶応二年の大火で全焼し、外国人たちの居住地も延焼してしまった。イギリスの外交官アーネスト・サトウは火災で無一物となっています。 復興に際して幕府は延焼防止策を提案、その後ブラントンによって日本人街と外国人街に区切りをつくるため、横浜公園と日本大通りができた。 つまり“近代都市の防火帯の街づくり”の中でできた公園です」 公園全域が市の管理になり”我らの公園”になったのは明治四十二年。“彼らの公園”にあったクリケット場は 野球場となった。横浜スタジアムの開設は飛鳥田一雄市長の時代。「この開設に当時の国鉄が反対しましてね。試合が 終わると観客が駅に殺到して混乱するというんです。市長はこう言ったそうです。“お客さんをいっぱい集めてやって 悪いのか”と」 三溪園は歴史的建造物の宝庫
ヨコハマの公園でとりわけユニークなのは三溪園だ。過去の遺産の乏しいヨコハマでここだけは例外。歴史的建造物の
宝庫で、国指定の重要文化財が十棟もあるという。「正確には公園ではなく“私園”ですが、“公園以上の公園”ですね。
市民にとってかけがえのない場所です」
(藤田昌司)
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