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平成12年11月10日 第396号 P3 |
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目次 | |
P1 | ○定年後の「かきくけこ」運動で快適余生 大島清 |
P2 P3 P4 | ○座談会 三渓園と原富太郎 (1) (2) (3) |
P5 | ○人と作品 田中祥夫と『ヨコハマ公園物語』 藤田昌司 |
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座談会 三渓園と原富太郎 (2)
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原 | それから空襲でめちゃくちゃになった。柱に破片がたくさんあります。庭にもたくさん爆弾が落ちて、すりばち状の
穴があきました。 |
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壁の下貼りから出てきた工事記録
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西 |
ところが、どうやら原家のものを使って張ってある。というのは、亀善の青色の印刷の罫紙なんです。なぜ亀善の 罫紙を使ったかは、わからない。それも三溪園のあの場所の工事記録です。何月何日、大工何人、植木屋何人、職人に 何日働いて幾ら払ったかという記録です。原別荘と判子が押してある帳簿。それをばらして張ったと思われます。 年代が入っているのは非常に少なくて、ただ、何月何日という日にちはわかる。たとえば、三日間雨ということが わかれば、気象台の記録と対照させて、年代がわかります。対照してみると、三十八年、三十九年ごろにまだ工事を やっている。何の建物かはわからないけれど。庭に池を掘ったり、梅の木を植えたりもしています。川崎から 職人さんが来ていますね。この下貼りの紙が本体の工事か、別な建物なのかは、もう少し調べてみないと。お茶室などは 三十八年に建てています。 |
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篠崎 | 野毛山の別荘は、残されている銅版画で見ると、レンガづくりの洋館です。その後、三溪園に日本風の本宅を
建てるわけですね。 |
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原 | 祖父は洋館がすごくいやだったんだと思います。それで善三郎が亡くなってから、すぐに本牧に移ったんです。
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篠崎 | 本宅と同じ三十五年に京都から天瑞寺寿塔覆堂を三溪園に移されているということはもうそのころから庭園づくりの
構想ができていたということなんでしょうか。 |
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西 | 中心になる本宅の建物ができたときにもう、よそから建物を持ってきているということは、全体計画が頭にあって
庭をつくったんじゃないですか。 |
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篠崎 | 建物のイメージや復元された方法は具体的にはどうなんでしょうか。 |
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西 |
それをもとにして復元しました。立派な玄関があって、車寄せがあって、そして大きな建物、入口の所が開放的な 大きな建物ですね。 アプローチの位置なんかは今回ほとんど変わっていません。ただ、現代的な使い方をするので、使い方に合わせた 工夫を部分的には少ししています。 |
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楽しくて優しかった祖父・富太郎
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篠崎 | 昭子さんはどの部屋にいらしたんですか。 |
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原 | 私は、倉の横の客間棟で生まれたと聞いています。父の良三郎が結婚したときにこの一画をもらって、私たちは
育ったんです。長男の善一郎一家と、震災でうちがなくなった父の姉の西郷春子一家の三所帯が住んでいて、母は 大変だったそうです。 |
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篠崎 | この建物での三溪さんの生活のご様子をお聞きになっていますか。 |
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原 | 母がお嫁に来たころは大家族で、祖父たちはご隠居所といいますが、白雲邸に住んでいて、食事だけこちらに
来ていたようです。 ですから、祖父母と善一郎夫婦と、そして西郷春子(子供三人)一家と、父たちの四家族です。 |
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篠崎 | お食事もテーブルだったんですか。 |
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原 | 全部畳なのに、全部椅子で、座る生活はしませんでした。 |
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篠崎 | どこのお部屋でそんなにいっぱい並んで食事をされていたんですか。 |
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原 |
私が生まれてからは、そんなに大勢住んでいませんでしたが、母はお嫁に来て、初めからお姑さんや小姑さんらと 一緒に住み、気を遣ったようです。東京から来て、夜はムジナなんかが鳴くし、怖かったと言っております。 それで祖父は、寂しがらないようにと思ってか、冗談ばっかり言って、母も若かったので、お食事もできないぐらい笑って、 祖父が来ると楽しかったそうです。 |
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川幡 | 昭子様のお母様は、会津(えつ)子様というお名前なんです。松平容保という白虎隊で知られている戊辰戦争のときの
会津の殿様のお孫さんにあたられます。 |
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原 | 原家は町民ですから、結婚は親戚からすごく反対されたそうです。昔のことですから。横浜に来て、やはり
家庭環境が全然違ったので苦労が多かったようです。そんなことを察して、祖父が随分かばってくれたみたいです。 私が覚えているのは、間門の二葉幼稚園に行っていたころ、帰りにいつも、ご隠居所に行かされました。 そのころ、祖父は寝ていることが多かったんですが、私たちが行くと起き上がって、「きょうは何を習ってきた」 って聞かれて、「こんなお遊戯」なんて言って、私が踊ったりすると、一緒になって踊ってくれて、すごく優しかった ことを覚えております。 あと、お正月に談話室という部屋に全員がそろい、コの字型になって座るんです。そのときは、なぜか座って お食事をするんですね、箱膳で。そのぐらいしか私は覚えていないんです。 |
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篠崎 | この建物にはいろいろなお客様が見えていますね。 |
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川幡 | 三溪先生は美術愛好家として知られ、たくさんの新進の画家を育てられたから、大観・観山ら、日本美術院の
画家が来ておられた。 昭子様がお生まれになった所の三部屋(客間棟)が画家専用の部屋みたいに使われて、横山大観が大正二年に あそこで「柳蔭」という大きな屏風絵を一月かかって描いている。同じ年に前田青邨も「御輿振」という平家物語を 題材にした絵を一月以上かかって描き上げた。これは青邨の出世作ですね。 そのころは大きな絵がよく描かれまして、屏風絵とか、絵巻物を描くにはやはり長い部屋が必要だったんですね。 |
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西 | 部屋が三つつながっていますね。多分建具を取り払うと広い空間になって、そこを使ってお描きになったんじゃないでしょうか。
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川幡 |
下村観山の代表作「弱法師(よろぼし)」に描かれた梅の木のモデルは園内の梅の木で、この絵にはタゴールが関係してきます。 インドの有名な詩人のタゴールはアジアで最初にノーベル賞をもらった人で、アメリカで講演をするときに、 気候のいい日本で草稿を書きたいということで大正五年に日本に来るわけです。 タゴールは実際は大観を頼って来た。大観は以前に菱田春草とインドに旅行し、そのことで懇意でしたから。 しかし大観のうちは泊められるような余裕がないので、三溪先生に話したら、「私の所に来て書きなさい」と。 で、タゴールが三溪園に来て、松風閣に二か月半ぐらい逗留した。 そのときに、帰りに何かお土産を差し上げたいと三溪先生が聞いたら、一番感銘を受けたのは「弱法師」の絵だと。 で、その複製を荒井寛方に頼んで描かせている。その製作も、今言われた三部屋を使って描かれたんです。 それとは別に、玄関を入って左手の部屋(楽室棟・広間)で、画家たちがしょっちゅう美術論議をした。三十畳の 大きな部屋で、談話室と言っていました。 つまり、画家を育てたといっても、ただ単にお金を出しただけじゃないんです。三溪先生は古美術の収集家として も有名で歴代の代表作をたくさん持っている。それを一人で抱え込んで楽しむのではなく、庭園の一般公開と同じように、 収集したものを非常に生かした使い方をされていた。 ですから、画家を招き、昔のいい絵を見せて、芸術心を養われた。そういうところが大変大事なところですね。 |
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篠崎 | それが今、国宝になっている。たとえば「寝覚物語絵巻」とか。 |
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川幡 | そうです。国宝や重要文化財になっている美術品を見る機会を与えられて、みんな数年にして大正時代の代表作を
描き上げている。そういう功績は非常に大きかったということです。 |
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岡倉天心が三溪に画家の援助を依頼
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川幡 | 美術評論家の矢代先生も言われていますが、財界人でありながら鑑識眼が非常にすぐれていた。美術についての
歴史や専門的な知識も人並みはるかにすぐれ、画家が来たときに、二日も三日も一緒に論議をしても話題に尽きる ことがなかったそうです。 江戸時代が終わると、西洋の文化にばかり目を向けて、日本の美術にみんなそっぽを向く。そのときにフェノロサが、 日本の美術にこんなにいいものがあるじゃないかと、古画の展覧会や美術講演を頻繁に開催する。それを教え子の 岡倉天心が引き継いで、新しい絵をつくり出す苦労をする。その実を結ばせるのが三溪先生なんです。 フェノロサと天心は新時代に合った日本画をつくり出そうとしたわけですが、このころ、岡倉天心の率いる日本美術院は 朦朧体(もうろうたい)と呼ばれ、不評で、苦難の時代でした。それで後援者を探し、三溪先生こそ適正であると岡倉天心が頼むんです。 そして、まず明治四十四年に安田靫彦と今村紫紅の二人が三溪先生の援助を受けることになります。 優れた古美術を鑑賞する機会を与えるなどしたことが効を奏し、新しい時代に合った、すなわちフェノロサや天心が 目指した絵が三溪園で生まれ育ってきたとも言える。 |
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談話室では法隆寺の壁画についても議論
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川幡 | そのときに美術論議をしたのは、さきほどの談話室で、牛田鷄村さんらが集まったときに、みんなで法隆寺の
壁画の話をしていた。いかに熱心かと言うと、壁画は一人で描いたのか、何人かで描いたのかとか、あるいは絵の 具の材料はどうだとか。ここで話していてもらちが明かないので、三溪先生が法隆寺に連絡して、これからこういう
画家が行くからじっくり見せてくれと。で、行った。そしたらその人たちが結局、壁画を模写するようになった。 昭和十五年からの第一期の複製時は荒井寛方があたり、昭和二十四年の金堂の火災後の複製作業には安田靫彦と 前田青邨がリーダーになっている。その人たちが談話室で法隆寺の壁画の話をしていたときは、みんなまだ若いんですよ。 まさか自分たちが後年、あの大事業をやるとは思わなかったでしょうね。 |
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長男の善一郎のところには文化人が集まる
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川幡 |
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原 | 住み込みで、ものすごい美人のミス・ゲーツ先生。 |
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川幡 | 善一郎さんの中学時代の学友には芥川龍之介がいまして、芥川もその後ずうっと懇意にしていました。美術面でも
梅原龍三郎の才能を早くから見出したのは善一郎さんで、それは美術史家の土方定一さんも言っています。 西洋画では岸田劉生もよく三溪園に来て、そういう後援もしていたんです。 牛田鷄村は善一郎さんの小学校時代の友人ですから、同僚の速水御舟や小茂田青樹を三溪園に呼んできて、この人たちも 日本の一流の画家に育っていった。文化人としては和辻哲郎、阿部次郎、谷川徹三らが出入りしている。和辻さんはすごく 懇意にしていて、昭和二十年六月の空襲のときもここに来ておられた。 |
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原 | 善一郎は昭和十二年に四十七歳で亡くなりました。芸術を愛し、また学者肌の人でした。伯母寿枝子(善一郎夫人)は
四十歳で未亡人になり、子どもがいなかったので、後に私たちが夫婦養子になりました。伯母は今年二月に百二歳で亡くなりました。 |
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篠崎 | 和辻哲郎の『古寺巡礼』の旅には、善一郎さんご夫妻が同行されている。それから善一郎さんの追悼の茶会のときの
お話は、谷川徹三先生から本紙で直接ご紹介いただいたことがございます。 |