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有鄰


平成12年11月10日  第396号  P2

 目次
P1 ○定年後の「かきくけこ」運動で快適余生  大島清
P2 P3 P4 ○座談会 三渓園と原富太郎 (1) (2) (3)
P5 ○人と作品  田中祥夫と『ヨコハマ公園物語』        藤田昌司

 座談会

三渓園と原富太郎 (1)
公開される「旧原家住宅」

   神奈川大学教授   西  和夫  
  原富太郎令孫   原  昭子  
  財団法人三渓園保勝会参事   川幡 留司  
    有隣堂会長     篠崎 孝子  
              

はじめに

篠崎
「鶴翔閣」
「鶴翔閣」 (旧原家住宅)
横浜市の中区本牧にある三溪園は、生糸貿易商である原富太郎氏(号・三溪)によって明治三十九年に創設 されました。三溪園は原家の私邸ではありましたが、外苑にあたる部分は当初から公開され、横浜市民の憩いの場と して親しまれてきました。

三溪園は第二次大戦の空襲によって大きな被害を被り、昭和二十八年に三溪園保勝会が設立され、庭園の大部分を 原家から譲り受けて、復旧と整備が進められてきました。

この三溪園の中で、原富太郎氏が起居された原家の本宅がこのほど解体、復元工事を終えて、十一月から一般に 公開されることになりました。

本日は、原富太郎氏の多方面にわたる業績や、「原家住宅」の建物の特徴、あるいはそこで過ごされた富太郎氏の 思い出などをご紹介いただきたいと思います。

座談会出席者
左から原昭子さん・西和夫氏・
川幡留司氏と篠崎孝子
ご出席いただきました西和夫先生は日本建築史、とりわけ近世の数寄屋建築や民家がご専門で、今回の「原家住宅」の 解体、復元工事を指導されました。

原昭子様は現在、原家のご当主の奥様で、原富太郎氏の令孫に当たられます。

川幡留司様は、財団法人三溪園保勝会にお勤めで、すでに四十年以上にわたり三溪園の保存と整備に携わって こられました。


生糸貿易と製糸家として幅広く活躍し、財をきずく

篠崎 原三溪さんをご存じの方も、だんだん少なくなってきてしまいましたね。

亡くなりましたのは昭和十四年、七十二歳のときです。

篠崎 もう六十年以上になりますね。原三溪さんはどういうお方であったか、まずご紹介いただけますか。

川幡
原富太郎
原富太郎 
「五日会アルバム」から
岐阜県柳津町佐波という所で、慶応四年(一八六八)にお生まれになり、大垣とか京都で勉強された後、東京へ 出られ、明治二十四年に横浜に来られました。

一般的には、生糸貿易商として紹介されていますが、製糸業も大規模にやっておられた。有名な富岡製糸所や 名古屋製糸所などを三井から譲り受け、従来からの埼玉県渡瀬製糸所などの経営にあたられた。つまり、原家は 生糸貿易と生糸の製糸業のほうで幅広く活躍した。また、三溪先生は今の横浜銀行の前身である横浜興信銀行の 初代頭取でもありました。

三溪先生は、西園寺公望侯を思わせるような風貌だということをよく聞きましたね。インドのタゴールが原家に 来たとき、通訳をつとめた矢代幸雄先生も、「優しく、しかも鋭さを持っていた。それで度量大にしてかつ細心。 あれだけの人は見たことがない」と言われた。

 

  岐阜から横浜の原家の養子に

篠崎 岐阜の豪農・青木家のご長男だそうですね。横浜にいらしたきっかけはどういうことですか。

東京で祖母の屋寿子と大恋愛したからです。祖父は早稲田の前身の東京専門学校の学生だったころ、跡見花蹊さんに 見込まれ、跡見女学校の先生になれと言われて、お習字と歴史、漢文を祖母たちに教えていて祖母と大恋愛した。 その当時、恋愛結婚なんていうのはまだないころで、雑誌にも載ったぐらいに大騒ぎされた。祖父は長男、祖母は ひとり娘で、両家が猛反対で、跡見花蹊さんがものすごく援助してくださって、やっとのことで養子になったという 感じでした。

川幡 大きな話題だったそうですね。それが二十三歳のときですね。

そのころは、曾々祖父にあたる善三郎が亀善の屋号で横浜の弁天通に店を構え、住まいも弁天通の店の一画に あったそうです。それから別荘が野毛山の今の動物園の所にあり、週末は別荘に行ったようです。

善三郎は野毛山に大きな洋館を建てています。ある意味で成り金だったんだと思いますが、祖母もものすごく ハイカラに育って、それが岐阜のまったく日本的な人と結婚した。宝石など大きらいな夫のため、祖母は全部人に あげてしまったそうです。

川幡 野毛山別荘の本館は西洋館ですが、その当時はまだ耐震について十分な研究がされておらず、関東大震災で 壊れてしまったんです。今の横浜市中央図書館の裏側から野毛山動物園の間なんです。日本庭園になっている あたりです。

野澤屋の茂木惣兵衛さんのお宅のお隣でした。

 

  本牧に本宅を移したのは明治三十五年

篠崎 原家と本牧との関係はいつごろからですか。

川幡 明治の初めに初代の善三郎さんがあの辺の土地を購入され、明治二十年ごろに松風閣という別荘を建てられた。 ですから別荘は野毛山と本牧にあり、明治三十五年に今の所に本宅をつくられた。

明治三十五年という根拠はそのころ原家で美術品の出し入れを専門にしていた川田富次郎という人がいて、 その技術を買われ、有名な古美術商の中村好古堂にお婿さんで行く。その中村富次郎さんが、非常にさとい子だと いうので岐阜から横浜に来たのが明治四十五年だそうです。初めて来たときに「このうちはいつごろできたんですか」 と聞いたら、「ちょうど今年で十年になります」というので逆算すると、つくられたのは明治三十五年ということに なります。これは直接中村さんから「私が行ったのは明治四十五年で、その十年前ですから間違いありません」と お聞きしました。


雨漏りで傷んでいた本宅を解体して調査

篠崎 善三郎さんが明治三十二年に亡くなられ、三溪さんが家を継がれてから本牧にご本宅を移された。今回、その お家を解体修理されたわけですね。

西
創建当初の原家住宅
創建当初の原家住宅 
(岐阜県歴史資料館蔵)
私があの建物を最初に拝見したのは、横浜市が譲り受けて修理をする予定になっていたのがなかなかできなくて、 随分傷んでいたときです。何とかしようという話が持ち上がった。

使えるかどうか調査をしてほしいと横浜市から頼まれ、調査に行くと、部屋の中から空が見え、ひどい雨漏りが していました。それで、雨漏りだけはとめようと、シートをかけていただきました。横浜市に一刻も早く手を入れて くださいと調査結果をお届けし、そこから始まりました。

で、委員会がつくられ、三溪園と横浜市が相談された。そこへ横浜にサミットを呼ぼうという話があり、迎賓館に したいという話が出て、急に動き出したんです。それで工事委員会のまとめ役をさせていただいて、工事と調査を 同時進行でやりました。調査をしているうちに、本当はもっと大きかったことや、屋根はカヤぶきだったこともわかってきた。 調査したときは瓦ぶきだったんです。

戦争中に、建物を縮小し、カヤぶきの屋根も禁止されましたので。

西 そのカヤぶきに戻そうという話になって、また問題がいろいろ出た。今、火の危険上、町の中では普通はできないんですが。

よくおできになったと思って。

 

  建物の形から鶴翔閣と名付けられる

篠崎 この本宅の鶴翔閣(かくしょうかく)という名前は、どういうところからつけられたんですか。

川幡 外観が鶴の飛ぶ姿に似ていることからです。その名前は三溪先生のころにつけられたそうです。それはお聞きになっていますか。

鶴の形という話はありました。あそこに押さえのために建てたそうです。普通ですと三階建てぐらいの屋根の 高さです。正門から入ったときの景色が、カヤぶき屋根の高いのがそこでおさまって、それで鶴が羽を開いたような 形ということです。でも、鶴翔閣の名前はほとんど使っておりませんで、「下のうち」と言っていました。

川幡 「下のうち」は鶴翔閣で、「上のうち」は松風閣のことですね。

 

  外観は和風でも椅子を使うように設計

篠崎 建築学的に見てどういう印象を持たれましたか。

西
旧原家住宅の間取り図
旧原家住宅の間取り図 
(三渓園保勝会提供)
傷んでいましたが、骨組みは非常にしっかりしていたので「これは使えます」とお答えしたんです。

カヤぶきですから民家風の建物ではありますが、主な部屋、特に玄関から入ってお客様を迎える部屋は、天井が 高いし、建具も大きなものを使っている。普通の和風の家ではないんです。ですから、多分、設計のときから 外国の方を迎えるつもりで椅子を使うように設計されたと思います。外観は和風ですが。

篠崎 どこかの民家を例にしたということはないんですか。

西 岐阜の民家じゃないかという話があり、調べましたが、似ているものはあってもこれがサンプルだというのは ないんです。非常に独自な設計で、設計者も大工さんもわからない。

川幡 大工さんについては、岐阜に末裔がいるんじゃないかと思って手紙を百通ぐらい出したんです。というのは、 鶴翔閣ができる二、三年前に出身地の佐波に立派な神社をつくって寄付している。そのときの棟梁を呼んできて いるのではないかと思ったんです。大正九年に建てた白雲邸の場合は岐阜の大工さんを呼んでいますから。しかし 岐阜から返事はなかったですね。

 

  子どもたちが伸び伸びと育つような家

今度、修理してくださったうちは、父たちが伸び伸びと育つように、ただ広いだけの家で、いい木は使っていないと 聞いておりました。それで祖父母は白雲邸に住み、父たち子どもだけがそこへ家庭教師と住んでいた。絵描きさんたちを よく呼んでいた奥の部屋は、木材もよかったと思いますが。

西 奥の客間棟は、調べてみると、どこかの材木を持ってきて使っています。ただ、そっくりどこかの家をいただいてきて建てたのでもない。 だけど、材木はたくさん埋木があったり、使い方を変えていたりしています。

ただ、床の間などは新しい材で、実にいい材を使用しています。その辺の背景は大変複雑で、よくわからないところが あります。また関東大震災のあとと思われる、鉄筋で引っ張ったり随分補強をした箇所もあります。



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