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平成13年11月10日 第408号 P4 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○「ハリー・ポッター」人気の秘密 (1) (2) (3) |
P4 | ○J・S・エルドリッジ ヘンリー・タイナー |
P5 | ○人と作品 諸田 玲子と『笠 雲』 藤田昌司 |
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お雇い外国人医師 J・S・エルドリッジ |
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日本の医療・医学教育、公衆衛生の分野で大きな功績
エルドリッジは一八七一年(明治四)に、ときのアメリカ農務長官H・ケプロンがお雇い外国人・正式には北海道開拓顧問として来日した際、老齢(六十八歳)のケプロンの秘書兼医師として同行・来日した。船で横浜港に着いたときは二十八歳であった。 私の息子のジョン・タイナーはイギリス人で、数年前の二十四歳のとき成田空港に着き、以来、英語の教師、またセミ・プロのフルート奏者として東京で活躍している。結婚の相手はすばらしい日本女性でピアノ教師である。 明治初期に来日して蒔かれた一粒の種が、一世紀以上たって開花し、実を結んだ感があり、親として、またエルドリッジの子孫としても、日本との絆が、この結婚でいっそう親密になったことに深い慶びと感謝の気持ちを抱くものである。 お雇い外国人ではないが、宣教師兼眼科医で、日本で最初の本格的和英辞書を編さんしたJ・C・ヘボンは、エルドリッジと同時代に横浜で活躍したアメリカ人であり、今日、日本では知らない人はいないほど有名である。しかしエルドリッジは、日本での三十年間におよぶ医療・医学教育、公衆衛生の分野での 大きな功績の割には知られていないと聞いている。 北海道開拓顧問ケプロンの秘書兼医師として来日
エルドリッジは、ジョージタウン大学で解剖学の助手、講師となり、医師としてまた教育者として教授陣から高い評価を受けていた。しかし一八六九年にホーレス・ケプロンが農務長官を務めていた農務省の図書館長となったことが、秘書兼医師として来日するきっかけとなった。 横浜で二十八年間医療に従事し横浜外国人墓地に眠る 来日して九か月後には、横浜に到着したばかりの妻フランシス(フランク)と五歳になる息子を連れて、開拓使外科医長として函館に着任。契約満了までの三年間に函館医学所を開設、二十名ほどの官私費生に基礎、臨床医学を教えた。教材も不足する中、エルドリッジは得意の絵で解剖図を描き、屍体入手が容易ではない時代にも苦労して入手し、ドイツ領事殺害の折りには、自ら遺体の解剖をして所見を残したりした。
このときの高弟の一人が六角(ろっかく)謙吉で、会津藩御典医の十三代目の官費生であった。のちにエルドリッジとともに横浜に移って居留地に住み、二十八年間、常にエルドリッジの補佐、通訳を務めた。またエルドリッジが十全病院(横浜市大病院の前身)院長になったときには治療主任として医療を続けながら、公私両面で教えを受けた。 エルドリッジは十全病院のほかブラフ・ホスピタル(山手一般病院)院長などを務めた後、五十八歳で死去し、横浜山手の外国人墓地に夫人と共に眠っている。 函館時代の書簡の発見をきっかけに再び日本との交流が 函館時代の活躍ぶりやエルドリッジの子孫に関する事実が判明するのは、函館を去って百年余りたってからのことである。すなわち一九七二年に、札幌市在住の医学史研究家・著作家である大西泰久氏が札幌短期大学図書館所蔵の「地崎文庫」の簿書目録の中から、麻糸で綴じられていた五十余通の手紙の束を見つけたことから今日にいたる資料研究が始まったのである。 黴臭い束はエルドリッジが函館から開拓次官黒田清隆宛に自筆で送付した書簡であった。次いで、北海道大学附属図書館北方資料室からも、ほぼ同数の自筆書簡が発見された。それらの資料から大西氏は官費生六角謙吉のご子息である高雄(たかお)(医者)と柾那(まさな)(横浜生まれ、エルドリッジ死去のとき九歳)両氏を見つけ出し書簡約百通の和訳を依頼。書簡発見から翻訳作業のかたわらエルドリッジの子孫探究の努力もされ、ついに一九七七年、没後七十六年にして、 六角謙吉の孫の妻である聰子氏を通じ、R・マシューズ博士の尽力でロンドンで一般医として開業していた私のところにニュースが届いた。 この間の経緯は、大西氏の『御雇医師エルドリッジの手紙』に詳しく述べられている。これらの手紙のほとんどは公文書であるため、活き活きとした人物像を描くには十分ではなかった。 エルドリッジの孫から関東大震災を免れた書簡などを託される
端正な文字で書かれているとはいえ、一八七一年八月からわずか一年足らずの間に書かれたものとは信じがたいほどの量の書簡を放置するわけにはいかなかった。まして、在横浜デンマーク領事ウォーミング夫人となっていた娘フランシスが母から預かった大切な書簡である。 一九二三年の関東大震災のとき、フランシスは横浜の家と逗子の別荘から、わずかな身の回りのものをもって、地震の五日後にエンプレス・オブ・オーストラリア号で日本を離れ、姉一家のいるイギリスに向かったのである。この書簡は大切な記録として金庫にでも保管してあったのだろうか。逗子で地震と津波にあったのはカリンが八歳のときだったと、本人から直接聞いた。 またそのとき、カリンの母フランシスが、災害に乗じて襲ってきた暴徒に外国人の中で、落ち着いて正確な日本語で応対し、見事に決着をつけた。この有様を目の当たりにしたカリンは、母への尊敬と誇りの気持ちを生涯忘れられない記憶として震災と共に残していて、私に話してくれたものである。 さらに、フランシスはMurasaki Ayami(むらさき あやめ)という美しい日本語のペンネームで、国の内外に日本文化を讃美する投稿記事を送ったり、情熱的に日本の和歌を引用しながら、恋人、いとこ、友人に長い手紙を送っていて、それらの写しも残っているのである。それらの手紙は父親ゆずりなのであろう、 一通が千七百語から二千語の長いものが多い。 五万五千語の膨大なジャーナルをホームページで公開 大切にイギリスまで運ばれてきたエルドリッジのジャーナル(書簡)は、今まであまり知られていなかった医師としての責任感、家族愛、日本人観、日本文化への興味、登山、釣り、絵画、乗馬などの豊かな趣味、十九世紀のアメリカの名医の徳目とされていた自己抑制の効いた人道的倫理観、あくまでも謙虚な姿勢、医学へのあくなき向学心と奉仕の心が表れていて、ドクトル・エルドリッジの人物像を浮き彫りにしている。 私は曾祖父を偉大な人物で医師の鑑としているが、他の人にも読んでほしいと考え、ようやく昨年タイプし終り、ホームページにのせた。関心のある方は是非ご覧ください(http://www.sydenham2.demon.co.uk/eld-jour.htm) 。最も難解だったのは日本の地名、人名、植物名などの固有名詞で、私の推察の域を越えていて大いに手こずり、間違いもあるかもしれない。 カリンの死で断絶したウォーミング家からタイナー家に移った資料その他に基づいて、私の兄ウィリアム・タイナーは、生き残っている四十九名の子孫について一冊の本を書いた。その本によると、一九〇六年生まれの私たちの父ウィリアム・タイナーはロンドンホスピタルですぐれた業績を残し、イギリスの医学会でも著名な医学者・教授であったし、私も医師であるが、子孫にはイギリス陸・海軍士官、兄のような経営者ほか、ジャーナリスト、教師、銀行家など、種々な職種についてる。 アメリカ人の両親から百三十年をへて、今日、子孫は約六〇%がイギリス、残りはアメリカはじめ八か国に住み、息子ジョンの結婚で日本が加わり、九か国になる。この機会を利用して、五万五千語の書簡を是非日本語に訳して頂きたいと願っている。 ◆訳者追記 タイナー兄弟(ウィリアム、ヘンリー)による報告と資料研究会が、平成十三年十一月十一日(日)十四時から横浜開港資料館の講堂で開催されます。参加費は無料。 |
ヘンリー・タイナー |
一九四六年ロンドン生まれ。医学博士。 |