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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成13年12月10日  第409号  P1

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 戦前・戦後の横浜 (1) (2) (3)
P4 ○米屋和吉夫婦の「関所抜け」  金森敦子
P5 ○人と作品  渡辺 淳一と『シャトウ ルージュ』        藤田昌司

 座談会

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戦前・戦後の横浜 (1)

   藤沢写真協会会員   中野 武正  
  写真家   常盤 とよ子  
  横浜市史編集室   大西 比呂志  
    有隣堂会長     篠崎 孝子  
              

はじめに

篠崎
座談会出席者
右から大西比呂志氏、常盤とよ子さん、
中野武正氏と篠崎孝子
昭和十六年十二月八日に始まった太平洋戦争は、横浜の街や人びとの生活を大きく変えました。

次第に戦時色が強まっていったころ、そして空襲で焼け野原となり、街のいたるところにカマボコ兵舎がつくられて占領軍の街になったころ。当時の街の様子や人びとの暮らしは、残された写真が今に伝えてくれます。

本日ご出席いただきました中野武正様は、昭和十三年から十六年まで横浜高等工業学校(現在の横浜国立 大学工学部の前身)の学生として横浜で過ごされました。その間に、街の風景や人びとの暮らし、学校生活などを撮影され、現在も大切に保管していらっしゃいます。

紀元2600年(昭和15年)の伊勢佐木町 伊勢佐木町裏の街(昭和30年)
紀元2600年(昭和15年)の伊勢佐木町
中野武正氏撮影*
伊勢佐木町裏の街(昭和30年)
常盤とよ子さん撮影**
常盤とよ子様は、昭和二十九年から、占領軍の街と化した横浜の庶民、特に女性に焦点を当てて撮影を始められ、現在まで数回、個展を開いておられます。

大西比呂志様は、現在、横浜市史編集室にお勤めで、近現代史がご専門でいらっしゃいます。

お二方が撮影されたさまざまな写真をとおして、戦前そして戦後の横浜の一端を再現していただければと存じます。


きっかけは学校の写真部、町の写真の会

篠崎 中野さんは昭和十三年に横浜高工に入学されたそうですが、何年のお生まれですか。

中野 大正十年です。

篠崎 横浜にお住まいだったのは高工時代だけですか。

中野 いいえ。私の父が保土ヶ谷化学の工場長をしていたので、小さいころ保土ヶ谷に住んでいました。その工場が関東大震災で焼けて、昭和初期から東京の本郷に住んでいました。本郷中学を昭和十三年に卒業して横浜高工に入り、陽明(ようめい)寮という個人の寮に入っていました。

大西 高等工業は大正九年に、南区大岡町の弘明寺の、かつて横浜国立大学の工学部があった場所に開校します。

中野 陽明寮も弘明寺にありました。当時は電気化学、応用化学、機械工学、建築学、造船工学、航空工学の学科があり、僕は電気化学でした。その当時は、父が日本曹達(ソーダ)の社長をやっていたので、電気化学に進まされたんです。

カメラは、中学のときはスピーディックスという小さいのを持っていたのですが、高等工業に入ったお祝いにスーパーセミコンタを買ってもらった。それで学校の写真部に入ったんです。写真部の名前がLSC(ライト・シャドー・クラブ)といって、メンバーは三人でしたが、バッジなんかつくって得意になっていた。カメラは昭和十四年にローライコードに変えました。

土日には本郷の家に帰っていたので、そこに暗室をつくって、フィルムの現像も全部自分でやりました。今でもネガがきれいに残っています。フィルムはブローニーというサイズでした。ドイツ製の引き伸ばし機で、自分で伸ばした紙焼も、そのままそっくり残っています。

 

  「プロの女カメラマンは数少ないよ」と言われて

篠崎 常盤先生はどちらのお生まれなんですか。

常盤 横浜です。東神奈川駅から真っすぐ港のほうへ出た国道の角です。私が生まれたときは隣に戸塚銀行があったのですが、その銀行がつぶれた跡を父が買って、お酒の問屋をやっていました。東神奈川の駅前に、貨車で来たお酒を入れる倉庫が幾つかあったのを覚えています。

篠崎 写真を始られたのはおいくつの時ですか。

常盤 始めたのは昭和二十九年で、二十四歳の時です。

兄が中学生のときに、あこがれのドイツのカメラ・ローライフレックスを父に買ってもらい、いろんな所に行って撮影していたんです。私もよく一緒について行ってたのですが、「ちょっとそこへ立って」とか言われて、よく写されていましたので、カメラには慣れていたと思うんです。

私は夢中になるものがないといられないような性格で、戦後は目的もなく、みんな散り散りになってしまったような感じでしたが、そのときに「プロの女カメラマンというのは数少ないよ」と言われたのが写真をやろうと思ったきっかけです。

篠崎 ご主人になられた奥村泰宏さんからですね。奥村さんのお写真は、以前『敗戦の哀歌』として当社から出版させていただきました。

常盤 そうなんです。彼は本当はプロになりたかったのですが、あの頃、食べられるかどうかわかりませんので、私をプロにしたかった。ですから、私は初めからプロになるつもりで始めました。

篠崎 二十九年ころ、二十四歳の女性がカメラマンになるなどということは夢にも考えられませんでしたね。

篠崎 桜木町駅前の読売新聞の支社の中の会議室を借りて、一か月に一回、写真の会が開かれていまして、その会に誘われて、通うようになったんです。一番前で先生の言うことをじっと聞いてました。それが昭和二十八年です。

それで、ファーストフレックスというカメラを買いました。あのころ一万円でした。

篠崎 そのカメラは、どうやって入手されたんですか。

常盤 お店で売っていました。まだ二眼レフが全盛のころだったんです。レンズはスペシャルというのでした。


「ハマの早慶戦」と親しまれた高工・高商戦

篠崎 中野さんが横浜を撮られた写真の一番最初は昭和十三年ですか。

中野 そうです。六月二日の開港記念日に、横浜高工と高商の野球の定期戦を横浜公園球場(現在の横浜スタジアム)でやってたんです。その写真あたりが最初ですね。

大西
高工・高商の野球定期戦(横浜公園球場・昭和14年)
高工・高商の野球定期戦
(横浜公園球場・昭和14年)*
高商、横浜高等商業学校は、大正十二年に、当初は高工校舎に設置され、のちに南太田の清水が丘に移ります。横浜国立大学経済学部の前身です。

初代校長を務めた高工の鈴木達治(煙州)も高商の田尻常雄も教育者として有名な方で信奉者も多く、二人とも、のちに横浜文化賞をうけています。

篠崎 横浜高工と高商は、ものすごくステータスの高い学校でしたものね。みんな入りたい学校だった。

常盤 女学生のあこがれだったそうですね。



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