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平成13年12月10日 第409号 P3 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 戦前・戦後の横浜 (1) (2) (3) |
P4 | ○米屋和吉夫婦の「関所抜け」 金森敦子 |
P5 | ○人と作品 渡辺 淳一と『シャトウ ルージュ』 藤田昌司 |
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座談会 戦前・戦後の横浜 (3)
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篠崎 | 横浜は昭和二十年の空襲で中心部の大半が焼け野原になり、その後、占領軍が入ってきて、焼け残ったビルもほとんど接収され、空き地にもカマボコ兵舎が立ち並んで、関内や伊勢佐木町周辺はまさに占領軍の町になってしまいました。常盤先生が写真を撮り始められたのは昭和二十九年ということですが……。
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常盤 | 私が写真を始めた当時は、土門拳先生が、サロン的なものは絵に任せておけばいいんで、写真は印刷されて大勢の人に触れる、社会へ飛び出していくのが本当なんだという考えで活動をしていらした頃だったんです。
それで、朝鮮特需で金偏(かねへん)景気というのがありまして、今は埋め立てられましたが、桜木町から高島町の所まで桜川というどぶ川みたいな川があったんです。そこで、職のない人がざるで川をさらって、ちょっと光ものがあるとそれを取って売っていた。そこを撮ったりしました。今までは何げなく見ていた風景が、写真を写すことになって、見方が幾分違ってきたんです。 ですから、最初から赤線地帯とか、そういう女性ばかりを撮っていたわけではなく、初めはミナトも撮りました。 |
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女性が一人で行くのは危険、といわれていた伊勢佐木町
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篠崎 | 性を職業にしている女性を撮ろうとお思いになったのは、どういうきっかけがあったんですか。
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常盤 |
でも考えてみたら、代表作があるカメラマンというのはそうたくさんはいないし、私もそんなに嫌がることはないんだと、あるときからすごく開き直りました。 ですから、「どうしてあなたは赤線地帯を撮るようになったのですか」と言われても私にも実はよくわからないんです。 東神奈川の家が二十年五月二十九日の空襲で焼けて、鶴見に疎開していましたが、伊勢佐木町はまだ占領軍がたくさんいるから、一人で出かけてはいけないとか言われている時代でした。 でも、伊勢佐木町はどうなっているのだろうか、ちょっと見てみたいなとか、いろいろ興味を持ちまして、兄や姉たちと連れ立って伊勢佐木町に行ったんです。 最初はびっくりしましたね。いわゆる占領軍を相手にしている女性が闊歩しているんです。それに比べて、日本の男の人は本当に沈んでいた。放出された毛布を外套に縫い直したりして、着ている。何かかわいそうな感じがするのに、女の人はやはり強いのかなと、そのときに思いました。 |
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篠崎 | 当時の伊勢佐木町はまさに占領軍の街という感じでしたね。デパートの野澤屋(現在の松坂屋)も寿(のちの松屋、現在のエクセル伊勢佐木)も不二家も全部進駐軍に接収されていました。
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常盤 | その後、写真の仕事をするようになって、そういう女性を写したいと思ったんです。 それで、ちょっと怖かったたんですが、伊勢佐木町に二、三日おきぐらいに行っては、遠くのほうから、外国人にぶら下がって、派手な洋服を着て口紅を真っ赤に塗った女性たちを写していた。 三○○ミリの望遠レンズをつくってもらったんですが、実用にはならなかったです。フィルムは高感度のトライエックスを進駐軍の兵隊から分けてもらっていた。PXで売っていたので、お小遣いが欲しくて売るんですよ。 |
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篠崎 | 日本のお金で売ってくれたんですか。 |
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常盤 | ええ、売ってくれました。トライエックスのフィルムですと、かなり暗くても写りましたね。
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レンズを被写体に向け、自身は半分物陰に隠れて撮影
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篠崎 | 常盤先生がカメラを持って写そうとされているときに、その女性たちに拒否反応はなかったんですか。皆さん、とてもいい感じで写っていらっしゃるように見えますけど。
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常盤 | 今でもそういう撮り方はあると思うんですが、真っ正面から来る人を撮る場合に、自分は物陰に半分ぐらい隠れて、相手を自然に、何となく写すというふうにして撮影をしました。これは誰に教わったというわけではなくて自然に、そういうふうにして撮るようになったんです。
ですから、トラブルはほとんどありませんでした。相手も知りません。薄々感づいていても、私ではきっと写らないだろうと思っていたんじゃないかと思いますね。だって当時、女のカメラマンは、ほとんどいませんでしたから。 |
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篠崎 | ほとんどどころか、皆無でしょう。 |
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常盤 | フリーランサーでそういう写真を写すというのはいませんでしたね。 |
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昭和二十七年頃から伊勢佐木町周辺は接収解除
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大西 | 伊勢佐木町周辺のカマボコ兵舎やビルが接収解除になりだしたのは昭和二十七年ごろからです。
二十七年の時点で、横浜には売春婦が三千六百人ほどいて、そのうち、「オンリー」がちょうど半分の、千八百人ぐらいいたという新聞の記事があります。 講和条約の発効で、米軍が神奈川から沖縄に行ったりして、占領軍が少なくなりますから、そういう女性たちも少なくなっていったのでしょうが、三十年ごろでも、まだ見られたんですね。 |
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篠崎 | 周辺地域に比べて伊勢佐木町は接収解除が遅かったんじゃないでしょうか。 |
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大西 | 野澤屋が全館解除されたのが昭和三十年。病院だった吉田橋際の松屋も、有隣堂も土地の全部が解除されるのは三十年です。下士官クラブになっていた不二家の接収解除は昭和三十三年です。
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常盤 | フリーで街頭に立っていて、歩いてくる外国人に話しかけて、どこかに行くというのはだんだん少なくなってきましたね。
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常盤 | 真金(まがね)町(南区)の赤線地帯の女の人たちを撮りだしたのも昭和二十九年です。 |
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篠崎 | 赤線というのは今はありませんが…。 |
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大西 |
真金町遊廓は横浜開港時、現在の横浜スタジアムの所にできた港崎(みよざき)遊廓が高島町などを経て、明治十五年に移転してきた遊廓で、戦前は内務省、戦後は警察の管轄下に置かれた公娼、赤線地帯です。 青線というのは飲食店街を含む盛り場ですが、非合法の売春宿を指すようです。 |
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篠崎 | 真金町は伊勢佐木町の少し先で、通りの突き当たりに大鷲神社があるんです。私も若いころ、お酉さんのときに通ったことがありますがびっくりしましたね。ショーウインドーみたいな場所にすてきな女性がポーズをとって並んでいるんです。なんてきれいなんだろうと思った。それから横浜にはチャブ屋がありましたよね。
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大西 | チャブ屋も、開港直後からあったといわれて、横浜名物などといわれていますが、これは外国人相手の私娼で、関東大震災後は本牧が中心でした。あと、元町の近くの大丸谷にもありました。
戦後は、これらが占領軍相手に栄えた。占領軍相手ということでは、山下町の互楽荘アパートに急遽設けられた特殊慰安施設協会RAAのヘルムハウスが有名です。 |
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世の中を必死に生きている女性たち
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常盤 | 昭和三十一年に「働く女性」という個展を銀座の小西六ギャラリーでやったんです。昼働いている女性と夜働いている女性を対比させて出したんです。
夜の女性はキャバレーの女の人とか、芸妓さん、赤線地帯の女の人とか、そういう夜の商売で、一生懸命働いているけれど、ちっとも楽にならない。そういう、世の中を必死になって生きている女の人たちでした。 そのときに、赤線地帯の女性たちの写真が十二枚ぐらいあったんですが、いつもそこが黒山の人だったんです。それで、そこをもっと深く掘り下げて撮影しようと、そのとき思いました。その展覧会のあと、仕事が来るようになったんです。 その展覧会に名取洋之助さんがいらして、「作者はあなたですか」とおっしゃって、「何で昼と夜を対比させて出したんですか」と聞かれて、「対比させたほうが両方とも強くなると思った」と言ったら、「それは違いますよ。もし自分が、ここが一番面白いと思ったら、どうしてそれだけで展覧会をやらなかったんですか」と言われました。私はいまだにずっとそれを守っているんですが、私は名取さんに大変かわいがっていただきました。 ですから、キャバレーなどの着飾ったドレスを着た女性が、路地裏で乳飲み子におっぱいを飲ませているところとか楽屋裏などを撮りました。キャバレーでお客さんと騒いでいるのは仮の姿で、子供がいたり、ぎりぎりの生活をしている。そういうものを撮影しようと思ったんです。 |
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篠崎 | 女性であるために撮る目も違ったし、写されるほうの気持も違った。多分、両方でしょうね。やはり男性とは視点が違うし、興味を持つ対象も違うと思いますね。
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妓楼の許可をもらい診療中の女性たちを陰から撮影
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常盤 | 真金町では、最初のころは買物かごの間からレンズを覗かせて撮っていたんですが、そのうちに「写真を撮ってくれるお姉ちゃん」と言われるようになり、女の人たちの部屋にも入れてもらえるようになった。それはやはり私が女性だったからでしょうね。
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篠崎 | 常盤先生が男だったとしたら、撮られる側の警戒が違ったと思いますよ。 |
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常盤 |
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篠崎 | これは女性でなければ絶対撮れませんね。 |
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常盤 |
ですから、そういう意味では、ちょっと特殊ですが、自分がやりたい写真の仕事で、しかもやりたいことを常に主役にできたのはすごく幸せだったなと思っております。 刑務所の控え室で赤ん坊におっぱいを飲ませている女囚を撮ったこともあります。写真を撮るためにいろいろな所に行かれたのはよかったと思っています。 |
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大西 | 常盤さんの写真は、『横浜再現』『わたしの中のヨコハマ伝説』などで拝見して、また『横浜市史II』でも使わせていただきましたが、女性や庶民のしたたかな表情がすごいですね。ぐっとこちらを睨んだような表情は迫力があります。
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写真家が意識して写さないと、残らなかった庶民の生活
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大西 | 戦後の横浜の表舞台については、進駐軍の接収の写真とか、米軍が残した写真がありますが、進駐軍の生態そのものを写した常盤さんの写真は、中野さんの写真にも通じるものを感じました。
当時は、庶民の日常生活や姿、内面といったものは、公式な記録としても、庶民の家にも少なかったわけで、これはやはり写真家といった専門家が意識して写さないと残らないものかもしれませんね。 私が所属する横浜市史編集室は、一九九三年以来、現在までに昭和戦前期から戦後の高度経済成長期までを対象とした『横浜市史II』の、通史編二巻四冊、資料編八巻九冊を刊行しています。私は主に政治関係の資料調査などをやっていますが、古い写真に接する機会も多く、編集室には約二万五千点の写真情報があります。そのほか「横浜の空襲を記録する会」が集めた戦前から戦後にかけての写真約千点も所蔵しております。 これらの中にも庶民生活の写真はいろいろありますが、とくに戦前・戦後の横浜の姿は、公的に残った写真だけでなく、お二人のような庶民の生活にまで分け入って撮られた写真も含めてみないといけないのかもしれませんね。 |
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篠崎 | 貴重なお話をありがとうございました。 |
なかの たけまさ |
一九二一年横浜生れ。 |
ときわ とよこ |
一九三〇年横浜生れ。 |
著書『横浜再現』(共著)平凡社2,854円(5%税込)、ほか。 |
おおにし ひろし |
一九五五年香川県生れ。 |
著書『相模湾上陸作戦』(共著)有隣堂1,050円(5%税込)、ほか。 |