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有鄰


平成13年12月10日  第409号  P2

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 戦前・戦後の横浜 (1) (2) (3)
P4 ○米屋和吉夫婦の「関所抜け」  金森敦子
P5 ○人と作品  渡辺 淳一と『シャトウ ルージュ』        藤田昌司

 座談会

戦前・戦後の横浜 (2)


大西
開港記念日の伊勢佐木町(昭和3年6月2日)
開港記念日の伊勢佐木町
(昭和3年6月2日)*
両校とも、創立とほぼ同時に野球部がつくられ、大正十四年の第一回の高工・高商戦は雨で延びて、開港記念日の翌日の七月二日に新山下球場で行われています。

その当時、開港記念日は七月一日だったのですが、昭和三年から現在の六月二日にかわっています。また昭和四年からは新装なった横浜公園球場で行われています。

中野 昭和十三年と十四年は高工が勝ったんですが、十五年は残念ながら負けちゃったんです。

大西 戦前に行われた最後の定期戦が昭和十六年です。戦争で中断されますが、戦後復活し、昭和二十三年まで十九回行われています。

両校の学生はもとより市民も二分して応援し、「ハマの早慶戦」として親しまれていました。

中野 応援はすごかったですね。試合の前は僕たちも全員、講堂に集められて何日も練習しました。

大西 試合の後は伊勢佐木町に繰り出したんですか。

中野 ええ。僕たち高工は、馬車道の角にあったオリンピックというビヤホールでした。

篠崎 随分立派な所に行くんですね。

中野 そうなんです。ビールを、しまいには吐くぐらい飲まされましたね。それで強くなったんじゃないかと思ってますが。高商はどこでやったんだろうね。


軍需インフレで活気があった繁華街

篠崎 昭和十五年の紀元二六〇〇年の写真もありますね。

中野 旗行列とか提灯行列とかいろいろやりましたね。歌もあった。

大西
紀元2600年の伊勢佐木町(昭和15年)
紀元2600年の伊勢佐木町(昭和15年)*
紀元二六〇〇年は、神武天皇即位から二千六百年にあたるとされる昭和十五年十一月十日から四日間、宮城はじめ全国で奉祝式典やさまざまな行事が行われました。泥沼化した日中戦争以来の閉塞感を打開して、戦意高揚をはかろうというねらいもあったんです。

横浜では、十日に横浜公園球場に二万二千人が集まって式典が行われ、伊勢佐木町や長者町、馬車道などには御輿や山車が繰り出されたそうです。

高等工業も奉祝運動会を横浜公園球場で行い、十一日には、日中戦争が始まって中断されていた建築科の仮装行列や音楽隊の芸術行進も復活して、伊勢佐木町などを行進しています。中野さんの写真はその時のものですね。世は軍国主義の時代に入っていますが、伊勢佐木町など街はまだまだ活気がある時代です。

篠崎 日中戦争は始まっていましたものね。

大西 そうですね。昭和十二年に日中戦争が始まり、貯蓄報国とか廃品回収とか国民精神総動員運動が叫ばれ、十三年九月には横浜を訪問したヒトラーユーゲントが伊勢佐木町を行進して軍国熱は高まっています。ただ、太平洋戦争末期とは違い、軍需インフレで工場などの景気がよく伊勢佐木町は結構繁盛していて、十四年六月に横浜常設館で上映された「愛染かつら」は観客があふれたそうです。

中野 僕の写真にも昭和十三年に東京の宝塚劇場でヒトラーユーゲントが上演されたときのものがあります。

 

  徐々に統制が強化されていった市民生活

大西
横浜市電(弘明寺・昭和15年)
横浜市電(弘明寺・昭和15年)*
十四年に横浜は周辺町村を合併して今日の市域にまで拡張して「大横浜」となっていますし、中野さんの写真に「東京開港絶対反対」のプラカードをつけた市電がありますが、十五年には東京の開港に市を挙げて反対運動するなど、むしろ大変活気があります。しかし市民生活は着実に統制が強化され、十四年には反英運動が盛り上がるなど、国際港都横浜が内向きの都市になっていった転換期といえそうです。

篠崎 そのころは伊勢佐木町は横浜第一の繁華街で、まさしく時代を映し出していた街という感じでしたよね。

中野 そうですね。横浜には繁華街はほかにどこもなかった。お三の宮に向かって伊勢佐木町の右が福富町で、左側の一つ裏の通りを親不孝通りといっていた。

篠崎 親不孝通りというのは有隣堂本店の書籍館と文具館の間の通りです。私たちもそう聞いていました。

伊勢佐木町にはよくいらしたんですか。

中野 よく行っていましたよ。森キャンとか。

篠崎 「森永キャンデーストアー」ですね。

中野 それから、福富町は今と違って静かな町でした。「ひびき」という音楽喫茶店があって、「未完成」とか「運命」とかよく聞きに行きましたね。それもコーヒー一杯でねばるんです。

 

  市電の終点弘明寺は学生の街

篠崎 弘明寺周辺や学校の周りの風景も随分撮られていますね。当時の弘明寺というのはどういう感じでしたか。

中野 ちょっとした繁華街というか商店街です。

篠崎 当時、弘明寺あたりに住んでいる学生が多かったんですか。

中野 多かったですね。高工の寮が第一と第二と、弘明寺に二つありましたし。

篠崎 学生さんの街という感じだったんですか。

中野 そうです。学校の正面に「阿波屋」というミルクホールみたいな小さな店があって、そこに「タマちゃん」という可愛い娘がいた。

篠崎 弘明寺は市電の終点でしたね。

常盤 あの繁華街は弘明寺の門前市なんですか。

中野 そんな感じです。その商店街に「中村屋」というそば屋があって、そこの主人や番頭さんが出前をしているところを撮ったものもあります。そのそば屋は今もあると聞いてますが……。

篠崎 そのおそば屋さんへはよくいらしたんですか。

中野 ほとんど毎日のように昼飯を食べに行っていた。高工の学生はみんなよく行ってたね。

大西
そば屋の出前(昭和15年)
そば屋の出前(昭和15年)*
伊勢山皇大神宮の七五三(昭和14年11月15日)
伊勢山皇大神宮の七五三
(昭和14年11月15日)*
私は、学生がそばを食べている写真とか、自転車で出前をしている写真とかが一番驚きましたね。庶民の日常が写されているのが非常に貴重だと思います。

こういう何でもない、日頃見慣れている写真はなかなか残っていないですからね。本当に珍しいですね。
 

  七五三の服装は男の子は海軍か陸軍の制服

篠崎 日中戦争が始まっているという雰囲気を、中野さんは街の中で感じられたことはありましたか。

中野 それはあまり感じなかったですね。伊勢佐木町の牛肉屋で大宴会をしたこともありますし。遊んでいましたからね。

大西 本当に物がなくなるのは、太平洋戦争が始まってからの昭和十七年、十八年ころからといわれていますね。

篠崎 そのころ伊勢佐木町に出るには、何で行かれたのですか。市電ですか。

中野 市電かバスでした。湘南電鉄(現在の京浜急行)は弘明寺駅に行くには山を登らないといけなので、あまり乗らなかった。

大西 七五三の写真も男の子は軍人さんの制服ですね。

篠崎 懐かしいな。これ、伊勢山の皇大神宮でしょう。

常盤 本当にみんな、こういう格好でしたね。

中野 海軍か陸軍かどっちかでね。

篠崎 太平洋戦争が始まると、十七年十二月に伊勢佐木町の通りの入り口のアーチが、それから、そのちょっと前には歩道にあった鈴蘭灯が金属回収のために撤去されたそうです。


農家の庭先に立つ「出征兵士の家」の旗

篠崎 農村の写真もありますね。

中野
出征兵士のいる家(小机・昭和16年)
出征兵士のいる家(小机・昭和16年)*
横浜の北部の小机辺り(現在の港北区)の写真です。あのころ、あの辺の農村に写真を撮りに行くと、出征兵士の家という看板がかかっていて、旗がたっているんです。出征兵士のいる家族の家ですよという印の旗です。

そういう家へ行って写真を撮ってあげて、それを送ってあげるんです。それを、そこのうちの人が戦地に送ってやるわけです。そうするとすごく喜ぶんだそうです。

旗なんか町の中のものと違うでしょう。

篠崎 私は初めて見ました。こういう旗は町にはなかったわね。表札は出ていましたけど。

中野 旗に昭和十六年一月十九日と書いてある。

大西 それに、横浜市のハマのマークがついている。こんな旗があったんですね。

中野 そのほかにも、農家の庭先で、収穫した大根を家族が掲げている写真もあります。

大西 これは、撮られる方がとても気を許して、ニコニコしているところがいいですね。

常盤 優しい感じでね。

 

  戦前の庶民生活を写した貴重な写真

大西 戦後すぐの、こういった日本人の日常は占領軍やアメリカ人が撮っていたりもしますが、日本人がこのように庶民の姿を残しているというのは、たいへん珍しいですね。しかも戦前に。戦時中の庶民の写真ももちろん少ないですが。

篠崎 戦争が激しくなると写真を撮るような状況じゃなかったですしね。

常盤 カメラを持ってうろうろしていたら、それこそ逮捕されたでしょう。

大西 防諜ということになりますからね。

常盤 横須賀なんかだったら大変ですね。

篠崎 横浜の写真を撮られたのいつごろまでですか。

中野 高等工業学校を昭和十六年三月に卒業して、十七年に兵隊に行ったので、十六年までです。

常盤 写真やフィルムが空襲などで焼けずに残っていたというのが最大ですね。横浜の市街地のほとんどは空襲で焼けているので、写真は、あまり残ってないですね。とくに一般庶民の生活を写したのがあまり残っていないというのは残念ですね。

大西
農家の庭先(小机周辺・昭和15年)
農家の庭先(小机周辺・昭和15年)*
公的な機関が撮ったものはありますが、庶民の姿というのは少ないですね。

先ほどもちょっと言いましたが、中野さんの写真を拝見して、貴重だと思ったのは、弘明寺のそば屋の出前持ちとか天秤棒をかついだ物売りの姿など、もはや見られない珍しい街の風物です。

そばを食べている学生や、近郊の農家で大根をもって並んだ家族の笑顔は自然で、すごくいいですね。戦前のこういう写真はあまり見たことがないです。

古い写真の残り方として多いのは、何か特別なときの記念写真とか、事件やイベントなどの記録写真で、カメラやフィルムが高価だった頃は、あまりにも日常的な姿や物、風景などを写そうとはしていません。

そういう意味でハレの写真でわりと表情がかしこまったものが多いのですが、中野さんの写真は日常の人たちの表情が豊かに現れていて、とても珍しいと思いますね。

 

  陸軍科学研究所で実験をしている写真も

大西 軍に入隊されたあとも撮影されていたんですか。

中野 僕は国分寺にあった陸軍の科学研究所にいたんですが、電気絶縁塗料の陸軍規格をつくりました。エンパイヤチューブというラジオの配線の絶縁材料です。その研究所で撮った写真は何枚かあります。たとえば、研究室で女性が何かの実験をしているところとか。

大西 フィルムはどうされていたのですか。

中野 戦争中は一般にはフィルムはなかったんですが、僕が下宿していたところが武蔵小金井の写真屋さんの別宅で、そこのおやじさんに、たまに分けてもらっていたんです。

大西 それも非常に貴重ですね。撮影機材も持っておられるし、当時、庶民にはフィルムが簡単に手に入らないというなかで撮ることを許されているという意味でも、また違う意味の貴重な写真が残っていると思うんです。



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