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平成14年3月10日 第412号 P1 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 日本サッカー界の雄・古河電工 (1) (2) (3) |
P4 | ○小林秀雄−その生と文学の魅力 秋山駿 |
P5 | ○人と作品 山田和と『瀑 流』 藤田昌司 |
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座談会 日本サッカー界の雄・古河電工 (1)
横浜から世界へ |
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はじめに |
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篠崎 |
横浜駅からほど近い西区西平沼町には、かつて、古河電工サッカー部(現・ジェフユナイテッド市原)の練習グラウンドがありましした。同サッカー部は、多くの日本代表選手を輩出し、現在の日本のサッカー界へ優秀な人材や指導者を数多く送り出してきました。 そこで本日は、「名門」と言われた古河電工サッカー部の歩みと活躍された人びとをご紹介いただきながら、戦後の日本のサッカーについて、お話しいただきたいと存じます。 ご出席いただきました小倉純二様は一九六二年に古河電工に入社され、八七年に同社サッカー部部長を務められました。現在は、日本サッカー協会副会長で、またワールドカップ日本組織委員会の事務総長代理も兼ねておられ、本大会では大会本部長を務められる予定です。 奥寺康彦様は一九七○年に古河電工に入社され、JSL(日本サッカーリーグ)をはじめ日本代表選手として活躍されました。その後ブラジル留学を経て、ドイツで日本人初のプロサッカー選手として活躍されました。現在は、「横浜FC」でゼネラルマネージャーを務めておられます。 田中孝一様はスポーツライターとしてご活躍で、昨年『サッカーの物語』(ベスト新書)を出版されました。 |
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横浜公園で明治三十年代にサッカーの試合
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篠崎 | 横浜は古くからサッカーとの関わりがあり、明治三十年代に、横浜公園のクリケット場で居留外国人クラブチームのサッカーの試合が行われています。当時の絵葉書が残っていますが、そのころは「サッカー」ではなく「フットボール」といっていたそうですね。
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小倉 | まず、簡単にサッカーの歴史を紹介しますと、十三、四世紀ころ、イギリスで始まったといわれています。最初、ボールは豚の胃袋を使っていたそうです。その後、試合が白熱したりして、危険だということで禁止されていたのが、十九世紀ころに復活し、現在に至ってます。
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奥寺 | 中国や日本の蹴鞠(けまり)なども、起源の一つといわれていますね。日本でも、庶民の間に浸透し、続いていたらサッカーは今よりももっと身近であったかもしれない。
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小倉 | 現在、ヨーロッパや南米では「フットボール」と呼んでいます。ところが日本では「サッカー」と呼んでいます。それはどうしてか。
十九世紀にサッカーの原型となる統一ルールができ、ロンドンに世界最初のフットボール協会が誕生した。協会ルールによるフットボールという意味で「アソシエーション(協会)・フットボール」と呼ばれた。サッカー(soccer)という言葉は、「アソシエーション=association 」の「soc」に由来します。 日本では戦後、アメリカンフットボールやラグビーと区別しやすい「サッカー」が定着したわけです。アメフトが盛んな米国やカナダと共に、日本は「サッカー」を使う数少ない国の一つです。 |
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篠崎 | 古河さんは古くから横浜に本拠地を設けていらっしゃるんですね。一八九六年(明治二十九)に、古河電工の前身の一つである横浜電線製造株式会社が横浜に設立され、一九二〇年に古河鉱業株式会社と合併して古河電気工業となったそうですね。
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小倉 |
拠点はずっと平沼にあったわけですから、横浜と一緒に育った。ですから九一年(平成三)に、Jリーグが発足するときも、古河は横浜を本拠地とする可能性が高かった。 たまたま主力工場が千葉に移り、練習場も浦安地域につくることになって、本拠地を移すことになったんです。それで、九三年のJリーグ開幕の時は、千葉の市原市を拠点とした「ジェフユナイテッド市原」としてスタートしたわけです。日産(マリノス)や当時の全日空(横浜フリューゲルス)よりもずっと前から古河は横浜にいたわけですから、本来なら横浜を拠点としていた。 |
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アイスホッケーとサッカーは古河電工の「社技」
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田中 | 古河電工さんはサッカー部もですが、アイスホッケー部も強かったですね。 |
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小倉 | ええ。サッカー部の創立は一九四六年(昭和二十一)です。私は六二年に入社しましたが、当時は都市対抗や実業団の日本選手権に出場していたんです。
当時の小泉会長はスポーツに理解があり、二つの主力工場の一つ、日光はアイスホッケーが強く、日本チャンピオンになったりした。もう一つの横浜はサッカーとボート、バレーボールと三つやっていたんです。そのうち、アイスホッケーとサッカーを会社の「社技」として、会社を代表するスポーツであるという位置づけになったんです。 戦後の日本のスポーツはみんな企業スポーツですが、たとえば新日鉄などの鉄鋼会社は、あらゆるスポーツと取り組まざるを得ない状況になっていた。 その後、電機メーカーの東芝や松下、日立もほぼ全種目をやりますが、古河はそこまでの大きな企業じゃなかったから、種目を限定して二つにした。ですから、それほどお金をかけなくてもいいから集中できたというやり方が重要だったと思います。長続きしたし、育成もできた。 |
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選手はほとんど横浜で暮らしていた
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篠崎 | 横浜工場やその周辺はどんな感じでしたか。 |
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小倉 | 一九六四年の東京オリンピックのころの選手は、東横線の妙蓮寺にあった神奈川寮に住んでいたんです。結婚した人は、今でもありますが、三ツ沢競技場の隣の古河の社宅に住んだ。
その後、その社宅の中に独身寮ができて、サッカー部の選手はその独身寮に住むことになったから、選手はほとんど横浜で暮らしていた。現在、Jリーグのチェアマン(最高責任者)の川淵三郎さんも神奈川寮に住んで、結婚後は三ツ沢です。当時の日本代表だった宮本征勝さん、鎌田光夫さん、みんな三ツ沢です。 |
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奥寺 | 僕は七〇年(昭和四十五)に入社しまして、最初は西区浅間下の浅間寮に三年間いました。それから本社に転勤になり、三ツ沢にできた宮川寮に移ったんです。僕は七年間、古河にお世話になりましたが、入社当時は練習は一日おきでしたが、結構きつかったですね。
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