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有鄰


平成14年3月10日  第412号  P2

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 日本サッカー界の雄・古河電工 (1) (2) (3)
P4 ○小林秀雄−その生と文学の魅力  秋山駿
P5 ○人と作品  山田和と『瀑 流』        藤田昌司

 座談会

日本サッカー界の雄・古河電工 (2)


小倉 そのころは実業団ですから、まだ一日おきぐらいでした。しかも、必ず午前中は働いて、午後練習という仕組みだった。しかし、だんだんそれじゃリーグ戦を戦えないということで、毎日練習する仕組みに変わっていったんです。

田中 息抜きは、皆さんは横浜のどの辺でなさっていたのですか。

奥寺 余り息抜きはしていないです(笑)。結構忙しかったんです。でも練習がないときは、仕事の帰りに同僚と横浜駅の西口辺りで一杯飲んだりとか。試合がないときとか、シーズンオフのときは、そうやってみんなが誘ってくれましたね。

田中 奥寺さんが相模工業(現・湘南工科)大学付属高校を卒業して古河に入社するとき、誘いをかけたチームは多かったのでは。

奥寺 いいえ、どこもなかったんですよ。神奈川県では強い高校だったし、僕は県内では結構いい選手だったんですけど。

小倉 当時は、各チームは選手を二、三人しか採っていなかったし、情報不足だったかもしれませんね。


日本で初めてアジアの王者となる

田中 古河電工のサッカー部は日本代表選手の宝庫でしたね。九八年のフランス大会の監督を途中から務めた岡田武史さんも、奥寺さんの時代に古河のメンバーだった。

チームが一番強かった時代は、いつごろですかね。

小倉
第6回アジア・クラブチーム選手権優勝
第6回アジア・クラブチーム選手権優勝
 1986年
スタジオ・アウパ
それはいろいろあると思うんです。戦後の日本サッカーの流れでは、元旦に決勝がある天皇杯のチャンピオンは早稲田大学とか中央大学とか、学生が主流だった。それを初めて、六〇年と六一年に実業団チームの古河が連続して優勝した。 そこが日本のサッカーが大人のサッカーになった切りかわりの時期だった。そういう意味での強さが、ちょうど東京オリンピックが始まる前の年の時期でした。

ところが、奥寺さんがいたときのチームが八六年(昭和六十一)にアジア・クラブチーム選手権で、初めて日本のチームが優勝した。皆の評価で古河が一番強かったのは、このときのチームだと思います。

 

  古河電工の三次にわたる黄金期

篠崎 奥寺さん、そのときのポジションは?

奥寺 僕はミッドフィルダーです。サウジアラビアでの決勝リーグのときには、向こうは、日本チームは弱いと結構僕らをばかにしていて、弱いチームが出てきて、僕らは四対三で勝ったんです。

田中 そのときに奥寺さんがハットトリックを……。

奥寺 そうです。したんですよ。

小倉 私がロンドンに駐在していた時で、試合を見に飛んでいきました。本当に強いチームで、初めて、日本のサッカーの歴史が変わった。ようやく日本のチームもアジアに出ていける自信がついた。それまでどこのチームも決勝ラウンドにいけなかった。

田中 古河電工の黄金期と言われるものがありますね。

小倉 何回かありますが、一九五八年(昭和三十三)に実業団で二位となったころから六四年の東京オリンピックの前までが第一次の黄金期になります。

先ほども触れた、六〇年、六一年と、二年連続天皇杯で優勝したり、実業団の社会人大会で一位となったり、都市対抗で一位となったりしました。その時は、当時の日本代表メンバーの川淵三郎さん、宮本征勝さん、鎌田光夫さん、平木隆三さん、八重樫茂生さんらがいました。

その後、六八年(昭和四十三)のメキシコオリンピックの後、日本のサッカーがJSL(日本サッカーリーグ)を中心にして動いてきました。それが実業団リーグ(Jリーグの前身)と言われて主流でした。

古河はリーグになってから二回チャンピオンになっています。奥寺さんはそのときのチームのメンバーでした。

田中 初優勝の七六年ごろが古河の第二次黄金期。八五年の優勝ごろが第三次黄金期といわれていますね。


奥寺康彦−日本サッカー界のパイオニア

田中 奥寺さんは、七六年の優勝後、ブラジルへ行かれましたね。古河の姿勢というものがある面ですごく目を引くんですが……。

奥寺 そこから変わったみたいですよ。それまでも三菱重工さんは、メンヘングラッドバッハ(ドイツ)に毎年、二、三人ずつ、日立さんもパルメイラス(ブラジル)に送っていましたが、古河はまだやっていなかった。じゃ、うちもやろうかということだったんですね。

小倉 ちょうどそのころ、古河がブラジルに工場進出して、受け皿ができたので、ブラジルにまず送ろうと。私が途中からイギリスに駐在したので、それから方向転換して、毎年二人ずつイギリスに夏休みにトレーニングに来るという仕組みをつくっていった。

だから、最初の草分けが奥寺さんで、ブラジルから勉強したんです。パルメイラスで二か月。二十三歳でしたね。

篠崎 ブラジルへポンと行かれて、どうでしたか。

奥寺 コーチと一緒に二人で行ったんですが、最初からわからなくて。それからホテルもとんでもないホテルだったんです。(笑)

学生が泊まるような、簡易ベッドみたいなもので、共同トイレ、共同シャワー。お金を節約しなきゃいけないということで、結構切り詰めた留学だった。

だから食事も、日系人のおばさんが日本人を泊めている所に行って食べた。

シュラスコ(ブラジル式バーベキュー)とかお肉がいっぱいあると思っていたら、週一回。日本人ですから煮物とか、ご飯とか。だから、我慢しなきゃいけないんだなというのはすごくありましたね。

小倉 言葉のハンディもありましたしね。ポルトガル語ですから。通訳がいるにしても、グラウンドに出れば一人ですから、大変だったと思いますよ。

 

  ブラジル留学後不思議なぐらい変わった体の動き

奥寺 大した練習はやらないんです。フィジカル・トレーニングが多かったですね。走ったり、飛んだり、山を登って下りてくるとか。意外でした。僕は、たくさんボールを使ってトレーニングをしているのかなと思ってた。

読売クラブ(現・ヴェルディ)のコーチを一時期やったジノ・サニという人が、そこで若いときに監督をやっていました。練習はすごくギャップを感じましたけど、みんなうまかったですね。

小倉 でも、帰ってきて、奥寺はすごい、変わったとみんなが思った。彼自身も、ボールは余り扱って練習しなかったと言いながら見ていたんでしょうね。そういう中で、体で覚えてきているから、行く前と後ではすごく違うんです。それからずっと日本代表に選ばれているわけです。

奥寺 僕は意外と足が速かったんで一緒に紅白ゲームをやらせてもらったんです。不思議なぐらい変わりました。

小倉 ブラジルから帰って来た後の七六年に、アジアの各国代表チームによる、マレーシアでのムルデカ大会では彼が得点王となりました。

今でこそ、中田英寿選手とか小野伸二選手とか注目されていますが、当時は日本のマスコミも含めて、サッカーに対する理解がほとんどなかった時期なんです。たとえば奥寺さんがドイツに移籍したときなど、今だったら、新聞記者がずっとついて回ってますよ。中田選手と同じ状態になっていたでしょうね。

 

  ドイツ・ブンデスリーガでチームの優勝に貢献

篠崎 ドイツには何年行っていらしたんですか。

奥寺 七七年から八六年まで九年間行ってました。きっかけは、日本代表で行って、向こうでバイスバイラーという名監督にスカウトされたんです。最初、ドイツの人たちは、日本人はサッカーができるのか、そういう噂が飛び交っていた。何で日本人なんだと(笑)。ヨーロッパにいっぱいいるじゃないかと。でもちゃんとやれれば認めてくれる世界でした。

小倉 今、ヨーロッパのリーグでは、イタリアのセリエA、イギリスのプレミア・リーグ、スペインのリーガ・エスパニョーラ、ドイツのブンデスリーガなどがありますが当時、世界の最高と言われたブンデスリーガに日本人で初めて奥寺さんが行って、1FCケルンというチームがすぐ優勝した。そのときに優勝のメンバーだったわけですから、すごいことなんです。

奥寺 食事の面は、僕自身は日本食を食べなくても平気だから、割と順応できた。ただ、最初のころの合宿で、夕方は温かい飯を食べないんです。ドーンと皿に盛ったチーズやハムとかをパンと一緒に食べる。それには最初参りました。でも、それぐらいですね。

あとは言葉がわからないので、これは参りました。行ったのは、ちょうど十月ごろ、毎日、雨と曇りみたいな天気で。ホテルに一人で泊まってドイツ語を勉強しに行って、その後、練習に通って。

 

  サッカーの世界一を決めるワールドカップ

田中 ドイツと言うと、私は高校時代に、ベッケンバウアーが最高のあこがれの選手だったし、ボルシア・メンヘングランドバッハのネッツアー、ディフェンダーのフォクツらが来て、その前にデッドマール・クラマーさんというドイツ人コーチが日本に来ていたし、日本とドイツは非常に自然な流れのような気がしたんですが。

小倉 当時はアジアもアフリカもサッカーで言うと後進国で、ヨーロッパと南米が両頂点でした。それで、ワールドカップは、南米とヨーロッパと交互に四年ごとにやっていた。それ以外の大陸ではサッカーがあるのかどうか、わからないという状態だったんです。

ですから、日本でサッカーをやっているなんて、わからない状態だったんです。それをクラマーさんらが教えてくださって、オリンピックで銅メダルを取ったのが一九六八年のメキシコです。

ところが、ヨーロッパにとってみれば、オリンピックはアマチュアの大会だから、世界一を決める大会じゃないわけです。プロの選手は、アマチュア大会のオリンピックには出場資格がない。それで、ソ連や、かつての東欧のハンガリー、ポーランドとかステートアマといわれた国が勝つんです。

だから、ヨーロッパの人たちはオリンピックに余り関心はないんです。日本が銅メダルを取ったと言っても、「それはアマチュアですな」といわれてしまう(笑)。ですから、ワールドカップに出られるようになって、ようやく日本のサッカーが世界に認められたということなんです。ましてや開催国になるというのは大変なことなんです。


ドイツでの体験がプロリーグの発想に

田中 奥寺さんが古河に入られたころは、日本のサッカー界の環境の中で、自分たちはこれからどうなるのかとか、自分たちはどんなところまでいけるだろうかとか、お考えでしたか。

奥寺 会社で仕事をしながらサッカーをやって、できれば日本代表になりたいと思っていました。それが頂点でした。あとはやめれば自然と仕事に戻るんだろうなと。当時はプロなんて考えられなかったですね。

小倉
ベルダー・ブレーメン時代の奥寺氏
ベルダー・ブレーメン時代の
奥寺氏

スタジオ・アウパ/Sawabe
私にもそのイメージは全然なかった。六八年にメキシコオリンピックで銅メダルを取ってから、何とかオリンピックに出なくてはという重圧が、奥寺さんみたいな日本代表選手にはかかっているわけです。それが、予選でいつも韓国かサウジアラビアあたりに負けていた。

ワールドカップはまだ夢の夢でしたよ。まずオリンピックへというイメージだった。

ただ、その後、奥寺選手がドイツに行って活躍して、やっぱり見えてきたんですね。こういうサッカーがあるんだということがわかってきた。世界が近くなったということがあった。

中田選手も、もう三チーム移っていますね。技術を買ってくれる所、自分が出られる所に行くという判断をするわけです。それは賭けでもありますが、声がかかったら、やはりそこに行くというのが、プロの選手の自然な姿です。

奥寺さんが行ったのは1FCケルンというチーム、そしてヘルタ・ベルリンに貸し出され、今度は戦っているうちに相手チームにスカウトされてベルダー・ブレーメンに移った。そういうことは奥寺さんが初めてで、ああ、そういうのがプロなんだとか、そういうことを彼の体験を通じて私たちはみんな知った。プロリーグのチームというのはすごいなと。

 

  クラブを中心に選手と家族、ファンが交流

小倉 奥寺さんがいたヘルタ・ベルリンというチームはものすごく家庭的なチームでして、たとえば土曜日に試合があると、奥さんや子供が試合を見に来たり、お嬢さんは試合を見たくなければ、隣のプールで泳いで試合が終わるのを待つ。試合が終わると、クラブでソーセージとかビールが出てくる。選手はシャワーを浴びて着がえて、またそこに来て、家族やファンと一緒に話をする。

それを通じて子供が大人と話すチャンスなどがある。そのクラブを中心にしてみんな生活しているわけです。ドイツのお父さんも二週間に一回はその試合を見るためにあけていて、家族連れで見て、土曜日一日を過ごす。

これだと思ったんです。私も帰ってきてからのプロリーグをつくるときの発想は、みんなそこだったんです。

川淵さんは代表チームで遠征したときに、ドイツのスポーツ学校で、芝生が何面もあるのにあきれて、ああ、これはいつ造れるかなというところから、クラブをつくらねばという発想になったんです。



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