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有鄰


平成14年3月10日  第412号  P3

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 日本サッカー界の雄・古河電工 (1) (2) (3)
P4 ○小林秀雄−その生と文学の魅力  秋山駿
P5 ○人と作品  山田和と『瀑 流』        藤田昌司

 座談会

日本サッカー界の雄・古河電工 (3)


 

  ライセンスプレーヤー第一号が奥寺・木村和司の両氏

田中 日本ではほんの十年前にプロのサッカーリーグができたわけですが、それによって確実にレベルアップしました。プロリーグ設立は大変な発想の転換で、日本のスポーツ界における革命的な出来事だと思うんです。

小倉
Jリーグ設立発表記者会見
Jリーグ設立発表記者会見
(左端は小倉氏、2人目が川淵三郎氏) 1991年
スタジオ・アウパ
日本は当時アマチュアだけだったので、外国でプロの人は、ルール上はプレーできなかったんです。プロとして扱えるようなルールがなければということで、奥寺さんの帰国に合わせてライセンスプレーヤーというのができたんです。それで奥寺さんと木村和司さんがライセンスプレーヤーになった。そこからがプロの始まりなんです。

ちょうど一九八六年、八七年に、前の国際サッカー連盟会長のアべランジェさんが、二十一世紀はアジア、アフリカの時代を迎えるから、そこでワールドカップをやってもおかしくないと発言してくれた。チャンスだということで二〇〇二年のワールドカップを招致しようと。招致するには、それにふさわしい力のあるチームをつくらなきゃいけない。それはプロリーグ、Jリーグだ。ワールドカップを呼べば、そこでスタジアムができる。

そういう機会以外にはできっこないというところで、ワールドカップの招致とJリーグをつくることを結びつけたんです。それで一九八八年にJSLの活性化委員会で案をつくった。

その当時だってJSL一部は十チームあった。それであと、「プロリーグをつくりますよ。やる気はありますか」という募集をしたら十七チームが手を挙げてくれた。バブルがはじけるぎりぎりのところで、もし一年おくれて言ったら、プロリーグは九三年にできたかどうかわからないんです。


横浜はサッカーのメッカの一つ

小倉 横浜に随分たくさんチームが集まったんです。というのは、横浜は、東京オリンピックのときに三ツ沢ができているわけですから。あれが貴重な財産でずっと引きずってきて、ワールドカップをやろうというときに、国体もやるからというので、あの競技場の案が浮かび上がったんです。

三ツ沢がなかったら今の国際総合競技場なんて造ろうと思わなかったんじゃないですか。

三ツ沢のサッカー場はJSLの拠点だから、古河も三ツ沢でずっとやっていた。

篠崎 三ツ沢のサッカー場は芝生はちゃんとあるんですか。

小倉 ありますよ。芝生に関しては、大変な苦労があります。冬でも今、芝生は緑です。それはものすごい技術の進歩なんです。

たとえば、日本でトヨタカップを十一月末から十二月初めに開催している。負けたチームはヨーロッパに帰ると、日本に芝がなかったと何度も言ったんです。というのは、テレビの画面から見ると、日本の芝生は茶色く映っている。

奥寺 向こうは一年中、青い芝なんです。来ると「何これ、芝じゃない」と。

小倉 芝が、負けた時の理由に使われていたんです。それで国立競技場の芝の担当者が発奮して研究した。冬芝、春芝、夏芝をまぜるとか。そういう研究がまさにこの十年間ですよ。ようやくそういうのができてきた。

Jリーグが始まったときは大変だったんです。水たまりができて、ボールがころがらなかったり。Jリーグができてから随分変わりました。

田中 JSLのいい対戦カード、たとえば三菱対ヤンマー戦などは、国立競技場でも三、四万人入りましたが、日本はサッカーが弱いということもあったんでしょうが、少なかったですね。

奥寺 1FCケルンは優勝争いをして強かったから、毎試合、五、六万人入っていました。すごいですよ。

田中 あるカメラマンが一九七一年にイギリスのウェンブリー・スタジアムに取材に行って、感動したのは試合じゃなくて観客だったと言っていました。

八万人入っていて、その人いきれは日本でJSLを撮っていて見たことがない。この観客こそサッカーをすばらしくする一番の要素なんだという言い方をされた。そういう面ではJリーグができたときはそうだったんですね。

小倉 それは随分変わってきたと思いますよ。スポーツファンが競技場で歌を歌うなんていうことは余りなかったことなんです。そういうのはドイツやイギリスのサッカーの影響なんです。共に楽しむということがようやく入ってきた。

田中 横浜という地域はチームが多いだけあって、そういうのは全国的にも進んでいるところですね。

小倉 横浜は、サッカーのメッカの一つですよ。

 

  アジアのサッカーの恩人クラマー氏

奥寺 今、全国的に子供たちのレベルは上がっていますし、そんなに差はなくなってきた。それだけ底辺が広がり、厚みもできたと思うんです。だから、今、Jリーグで活躍できる若い選手も、海外に行く選手もふえてきたのは、そういう子供たちが育って今につながっている。だから、そういう子供たちが出てくる道筋はできた。

篠崎 初めコーチの養成が大変だったみたいですね。

小倉 今は資格を持っている人が何万人といます。それは東京オリンピックの後、ドイツ人のデッドマール・クラマーさんが指導者のための講習会を開いたことに始まります。すごい方で、最近まで、中国で指導者のための学校の先生をやっておられた。まさにアジアのサッカーの恩人です。日本の後に韓国にも一時行って、それから中国ですから。

篠崎 今度もっとすそ野を広げるには、今年、どうワールドカップを成功させるかですよね。

奥寺 僕らが広げたいのはサッカーを知らない人たちにです。


横浜FC−ファンの力で誕生したチーム

篠崎 現在、奥寺さんは横浜FCの社長さんですね。

奥寺 はい。チームの運営をしなければならない。

田中 要するにJリーグが一九九三年(平成五)に始まって、最初に横浜に本拠地を構えたのが日産の横浜マリノスと、全日空の横浜フリューゲルスだったわけです。九八年に横浜フリューゲルスが、親会社の全日空の経営的な問題で維持できないということで、横浜マリノスと一つにする縮小方向にいった。 そのときに、マリノスのほうがどうしても主力になるから、フリューゲルスが形としては消滅するということが、九九年一月一日の天皇杯を最後に決定した。

ですから、横浜のチームはJリーグでは、横浜F(フリューゲルス)マリノスという一チームになった。ところがチームはなくなっても、フリューゲルスを応援するファンはいて、じゃ、俺たちがそのチームをつくろうじゃないかということで、誕生したチームが横浜FCです。

 

  サポーターの出資で運営する初めてのチーム

奥寺 サポーター六名の出資で三年前に、その小さい会社ができました。協会の規約ですと、我々は新しいチームなんです。新しいチームは地域の下の方から何年もかけて勝ち上がってこないとJリーグに入れないんです。ましてや、現在、アマチュアの最高峰であるJFL(日本フットボールリーグ)に入るのも、五、六年かかるんです。だけどサッカー協会さんのご尽力で横浜FCをアマチュアの最高格にやろうと。でも選手は誰もいないんです(笑)。 それで、ほかのチームを解雇されるような選手ばかりをピックアップして十五人ぐらいの名前をそろえて協会に提出した。最初は準会員でスタートして、一年目で優勝した。

 それが一昨年です。それで正会員になって昨年は全勝優勝、ダントツで優勝してプロリーグのJ2に上がった。

小倉 J2で二位までに入ると、今度はJ1に上がっていく。しかしJ1に入るとお金もかかるんです。

田中 チームを運営していくには、たとえばJ1なら年間十五億円から二十億円、J2だと、その半分ぐらいはかかるから企業が丸抱えをすることになるんです。横浜FCは、今度はファンが、自分たちができる範囲のサポートをしながらチームを支えていこうと。そういう面では初めてのチームになると思います。

 

  横浜市民が支えてくれる、地域に根ざしたチームに

小倉 ですから、大変なんです。たとえば企業が中心のチームは、企業の練習場を使えますが、FCは何もないから練習場は借り歩いている。

奥寺 横浜市が持っている芝生のグラウンドをお借りするんです。金沢区の長浜とか都筑区の都田(つだ)公園とかをジプシーをしている。今は選手の給料を払うのが精一杯で、細々とやっているんです。

サポーターと会員を募っていまして、それが去年は三千人ぐらい。あとはスポンサーで、看板とかロゴを選手のユニホームの胸につけるとか。それから市、自治体にもグラウンドを貸してもらったり、協力していただいています。

FCを応援する熱狂的な人たちは、フリューゲルスのなくなった経緯がわかっているから、一つの企業に依存するのをすごくいやがるから、大スポンサーを見つけにくい。

小倉 確かに安定したスポンサーがいて、ベースは確保できていないと。やっぱりいい選手、いいコーチを集めないと勝てない。それにはある程度財源を持たないと。ファンも負けると去っていく。ここが難しいところです。

今の位置づけは、横浜市民のチームということになっていますし、横浜で応援してもらうとありがたいんです。横浜みたいに大きな都市でサッカーを二チーム応援しても全然不思議じゃないと。

奥寺 たとえばプレミア・リーグのチームは多国籍軍でイングランド人は少ないんだけど、応援する人は違う。俺たちはチームについているんだから、そこに誰が入ろうが問題ない。チームが勝ってくれればいいという意識です。ということは、我々Jリーグもそうなんですが本当は地域に根ざして、地域の人が支えてくれれば、ずっと残っていける。そういうのを百年構想でやっていて、何チームかできつつあります。たとえば浦和とか、鹿島とかはすごいですね。だから、横浜に本当に根付かせてと、今一生懸命やっているんです。

小倉 イギリスやドイツではシーズンチケットが世襲なんです。代々引き継いでいくから、親が見た同じ席で子が見るということで、会費さえ払っていけば続けられる。それは楽しいことなんです。

奥寺 グラウンドは今、三ツ沢です。そこで年間二十二試合中、最低十八試合はやるんです。

田中 去年の成績で、横浜FCは決して上位ではなかったけれど、ホームのゲームはむちゃくちゃ強い。そういうのがサポーター、ファンを引きつける要因です。

 

  日本サッカーをずっと演出してきた古河電工

篠崎 サッカー人生で、古河電工という会社からどういう影響をうけられましたか。

奥寺 僕の母体ができたのは古河だと思うんです。サンパウロにも出させてもらい、僕がプロでやれた下地はそこでできたんだし、それから、仕事をしながらやったこともすごくいい経験でした。

小倉 私はサッカーのプレーヤーではなくて会社に入りましたが、縁があってサッカーにかかわって、プロリーグを仕掛けたり、ワールドカップを招致することに参加できたのも、この会社が自由にやらせてくれたからです。

私はロンドンに五年半くらい駐在していましたが、その間、日本サッカー協会国際委員と古河電工のロンドン事務所長の二つ名刺を持っていたんです。当時、私みたいな所長をやっていた駐在員が七百人ぐらいいたのですが、日本サッカー協会国際委員という名刺を持っていたのは私一人ですから、イギリスのどこの会社に行っても親近感を持って接してくれた。古河にいなかったら、そういう経験はさせてもらえなかった。

田中 古河電工は、奥寺さんをはじめとして、名選手を多数輩出した一方で、日本サッカーというものをずっと演出してきた企業なんですね。

小倉 私は裏方でしたが、リーグの会議とかに、仕事中でも途中抜けて行くのを許してくれた。それは大変ありがたかった。当時で言えば企業メセナでしょうが、そういう意識はあったんだと思いますね。

ですから、昔話になりますが、長沼健さんも広報課所属でありながら日本サッカー協会の専務理事の仕事をやっていたわけです。

田中 突き詰めて言えば、ワールドカップの実質的なリーダーとしてやってこられたのが長沼さん、プロサッカーリーグを引っ張ってきたのが川淵さん、その片腕なのが小倉さんだと。古河電工の姿勢なくして今の日本サッカーは本当に何年おくれているかわからないですよ。

小倉 その人たちだけじゃなくて、周りに随分いろんな人たちが命をかけてちゃんとやっていたんですよ。


横浜でワールドカップの決勝戦

小倉
横浜国際総合競技場
横浜国際総合競技場
(港北区小机町)
六月三十日のワールドカップの決勝戦は横浜であります。六月九日は日本とロシアの試合もあります。これは大変注目されるゲームです。横浜での決勝戦のためのお祭りが一週間近くおこなわれますし、みなとみらい地区にメディアセンターができますから、一万人近いメディアの人たちも全部入り込む。そういう財産がワールドカップの後も横浜に残り、マリノスも、横浜FCも支えてもらったら、大変うれしい。

大会開催時には、横浜に集まるサッカーファンを大歓迎してほしいと思います。

篠崎 有隣堂でもワールドカップに合わせて、伊勢佐木町の本店ギャラリーで、四月五日から十日まで写真展を開催します。七日には写真展の会場で奥寺さんにトークショーをお願いしており、楽しみにしております。今日はどうもありがとうございました。




 
おぐら じゅんじ
一九三八年東京生れ。
 
おくでら やすひこ
一九五二年秋田県生れ。
著書『奥寺康彦の楽しいサッカー』小峰書店1,155円(5%税込)ほか。
 
たなか こういち
一九五三年岐阜県生れ。
著書『オリンッピクを30倍楽しく見る本』学習研究社599円(5%税込)、ほか。
 




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