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平成14年5月10日 第414号 P4 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 日本サッカー界の雄・古河電工 (1) (2) (3) |
P4 | ○小林秀雄−その生と文学の魅力 秋山駿 |
P5 | ○人と作品 山田和と『瀑 流』 藤田昌司 |
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小林秀雄−その生と文学の魅力 |
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乱暴な青春の象徴であった小林秀雄
小林秀雄がお酒に酔って、一升ビンを抱えたまま水道橋駅から墜落したと聞けば、旧制中学生の身ながらすぐ往ってみて、ふうむ、ここから真っ逆さまか、よく生きていたな、と感嘆したり、吉祥寺近くの水道道路に出ている屋台で、あの写真そっくりの姿でお酒を呑んでいる太宰治を、背後に立ってじっと見ていたりした。 空襲による焼け野原と残ったビル、半分破壊された都市である東京には、ランボオの詩句がよく似合った。 〈冬の夜々、宿もなく、衣食もなく、諸街道を徙(うつ)り行き、俺の冱(い)てついた心は一つの声に締められた。『強気にしろ、弱気にしろだ、貴樣がさうしてゐる、それが貴樣の強みぢやないか。貴樣は何処に行くのか知りはしない、何故行くのかも知りはしない、処構はずしけ込め、誰にでも構はず返答しろ。 貴樣がもともと屍体なら、その上殺さうとする奴もあるまい』夜は明けて、眼の光は失せ、顔には生きた色もなく、行き会ふ人にも、この俺を見たものはなかつたらう。〉(ランボオ『地獄の季節』小林秀雄訳)
われわれ少年より少し前の世代、三島由紀夫が代表する世代以降の者は、詩人にしろ批評家にしろ、ほとんどすべての者が、小林の声に魅惑され刺戟されて、文学を出発させたのである。 小説家も、似たようなものだ。戦後生れの中上健次にはくっきりと、それからその後の新鋭作家にも、小林秀雄の言葉の爪跡が刻まれている。そんなことは文章を見れば分る。 わたくしごとになるが、私は一九六〇年に、文芸誌『群像』の懸賞評論に「小林秀雄」というエッセイを書いて文学の世界に登場するのだが、なぜそんなエッセイを書いたかというと、乱暴な青春の象徴だった小林秀雄が、なんだか“人生の教師”顔になりそうなので、大先生には失礼ながら、生意気にも警告を発したいと思ったからである。 時代の最尖端を行くハイカラ者で好男子 小林を読むより前に、十六歳の私は、中原中也に心酔していた。 その三年後、小林、中原の二人に魅せられていた私には、困ったことが生じた。
長谷川泰子さんと対談したとき、なぜ、中原中也から小林秀雄へと走ったのか、と訊いてみた。明言されなかったが、私には分ることがあった。まず、小林は好男子であった。いまも写真が映す鋭気のあの顔。それに知的には、時代の最尖端を行くハイカラ者であった。同時代の文学青年が、小林秀雄に学んだ。つまり、一世代前の、芥川龍之介みたいなものだった、と思えばよろしい。 私はスポーツ新聞記者のとき、文士野球を観戦したが、たしか小林は二塁手で、けっこう身ごなしは軽快であった。これじゃ女が惚れるのも無理はない、と思ったものだ。中原中也は、逆立ちしたってそんなことはできない。 小林秀雄は、乱暴な人だった。泰子に振られたと思って、大島に自殺行に往ったり、その泰子が潔癖症になってしまったので「シベリア収容所」みたいな生活を送ったり、ある日泰子に「出て行け」と言われると、その足で、妹とお母さんだけの母子家庭を放り出して志賀直哉の許へ走ったり、登山をすれば、デワという変なものに出遭ったり…。それに、後年、ギター自慢の深沢七郎相手に、自分も若い頃はよくマンドリンを弾いたものだと自慢する、そんな稚気に満ちていた。 信長像の水源は小林秀雄 中国の春秋・戦国時代の歴史を、初めて一つの現実のように鮮やかに描き出してくれた宮城谷昌光も、小林秀雄という磁場から出発してきた。現在刊行中の『小林秀雄全集』(新潮社)発刊を機に、彼と「小林秀雄」というテーマで対談したとき、そのことがよく分った。実によく読んでいた。読む? いや、精神の感応といった方がいい。明らかに、彼の作品の水源地は、小林秀雄である。 ここでちょっと、時代小説、歴史小説ファンの人にささやいておきたい。戦後、剣の決闘を描いて日本人の心に強く訴えた、五味康祐、柴田錬三郎の時代小説の水源地にも、小林秀雄がいるのだ。 私は『信長』という本を書いたが、その信長像の水源も、小林秀雄であった。 小林の文学の中央を貫く、一直線に突き進む元気 小林は乱暴な人だ、と言ったが、その乱暴とは−一度自分で決断したら、前途も知らず、前後も見ず、自分を信じて一直線に突き進む元気、といった意味のものだ。 その一直線に突き進む元気が、小林の文学の中央を貫く。出発点から最後まで貫く。 ランボオの翻訳がそうであり、ヴァレリーの翻訳がそうであった。その前途にどんな文学的成果が宿るのか、そんなことにお構いなく一直線に突き進んだこれは、大胆極まる行為であった。翻訳? そうではない。小林は、その詩句や批評の精密さを、自分の生の内部でまず生きて、それらの声や言葉を、日本の現実の中に生き生きと起たせようとしたのである。われわれが気楽に、ランボオ、ヴァレリーなどと言えるのも、小林がそんな地平を切り拓いてくれたからだ。 西行や實朝の出てくる『無常という事』もそうであった。日本の古典、つまり日本の文化と伝統に衝突し、それは何かと問い、まったく新しい眼で古典を切開して見せたのである。それまでは、實朝をモーツァルトのように、西行をドストエフスキーのように、描いて見せてくれる人など誰もいなかった。したがって、これ以降は日本の古典を論ずるとき、どこかで必ず、小林の切り口に触れねばならぬようになった。 ドストエフスキーのことも、忘れてはならない。小林は冗談に、「ドストエフスキーを読むことにかけては、日本人が世界一ではないか」と言っているが、そんな日本人読者の熱意には、小林のドストエフスキー論が大きな力を与えた。 小林は、何十年もドストエフスキーに親しみ、その登場人物を通して、男女の葛藤の奥、人間心理の深奥へと入って行った。戦後すぐに、「『罪と罰』について」で、いわば理由なき殺人を描き、戦時中にヒトラーの『わが闘争』を読んだときにはすぐ、一種の邪悪な天才を、『悪霊』のスタフローギンと同じものを見出していた。小林の『「白痴」について』は、人間の意識というものの驚くべきドラマを描いた、日本の批評文学の傑作である。 私は元気のないとき、本を任意に開いて、小林『ゴッホの手紙』の一ページを読む。すると、元気が出てくる。良い本とは元気の出る本のことだ、とゲーテが言っているが、それには小林のこの本が一番だ。 『感想 ベルグソン』『本居宣長』は敢行であり、壮挙
小林は、戦後の時代が、あまりにも日本文化の基本から外れた方へ進んでいるのを見て、時代に抗して、警告として、彼が日本と現代について考えたところを種子として、われわれへとばら撒いたのであった。一粒の麦もし死なば……、それがヒントの真意であった。 それから、小林は、自分の文学が到りつく頂点にある、二つの大きな問題に挑んだ。 一つが、『感想−ベルグソン』(今回の全集に収録されるが、これまで未刊行)。これは、ベルグソンとアインシュタインが衝突した、時間の問題、というより、われわれの生存の奥底にある、意識と物とが絡み合って演ずる不思議なドラマを、哲学でも科学でもなく、小林が生きて育ててきた文学の一つの言葉で、解明しようとするものであった。 もう一つは、『本居宣長』。これは、『源氏物語』と戦国時代という革命を、二つの極にして、日本文化の真の根底を明らかにしようとするものであった。 この二つ、敢行であり、壮挙であった。小林秀雄は、自分の生を一直線に駆け抜けた。 |
あきやま しゅん |
一九三〇年東京生れ。文芸評論家。 |
著書『片耳の話』光芒社1,890円(5%税込)、『信長』新潮社2,520円(5%税込)、 『小林秀雄と中原中也』第三文明社612円(5%税込)、ほか多数。 |