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平成16年4月10日 第437号 P1 |
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○座談会 | P1 P2 P3 | 石塚裕道 |
○特集 | P4 | 世阿弥と金春禅竹 松岡心平 |
○人と作品 | P5 | 田辺聖子と「残花亭日暦」 |
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座談会 横浜は「昭和」をどう歩んできたか (1)
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左から大西比呂志氏、高村直助氏、石塚裕道氏 |
はじめに |
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編集部 | 横浜市は開港130年、市制施行百周年(平成元年・1989)の記念事業として、昭和60年(1985)に、三度目の横浜市史の編集事業を開始しました。 この『横浜市史 II 』は、本編が3巻・各上下巻全6冊、資料編が8巻9冊の刊行を終え、この3月末に刊行されました16冊目の索引編をもって、19年に及ぶ編集事業が完結しました。 『横浜市史 II 』は昭和5年(1930)から戦争、敗戦、それに続く米軍による占領の時期を経て高度経済成長のもと、1975年に至って、戦後の都市づくりがようやく軌道に乗るまでの約45年間にわたる時期を対象に編集されたものです。 「激動の昭和」とよばれているこの時代を、都市横浜、あるいは横浜の市民がどのように歩んできたかについて、市史編集に伴う資料収集、あるいは研究の成果などをご紹介いただきながら、お話しいただきたいと思います。 ご出席いただきました石塚裕道先生は東京都立大学名誉教授でいらっしゃいます。 首都圏形成史研究会の会員(前会長)としてもご活躍のほか『東京百年史』や『川崎市史』なども執筆されました。 高村直助先生は『横浜市史 II 』の代表編集委員でいらっしゃいます。 東京大学名誉教授、フェリス女学院大学教授でいらっしゃいます。 この4月からは横浜市歴史博物館館長も務めておられます。 大西比呂志さんは横浜市史編集室に長く勤められ、現在は同資料室嘱託、早稲田大学講師でいらっしゃいます。 『横浜市史 II 』には「敗戦と横浜市民」<第2巻(上)>などを執筆されております。 |
◇市制百周年を記念して3度目の市史を編集 |
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編集部 | まず『横浜市史 II 』(以下『市史 II 』)の編集事業についてお願いします。 |
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高村 | 私たちが手がけました『市史 II 』は、横浜市としては3度目の市史編集事業です。 1度目は、1920年(大正9)に発足したのですが、関東大震災で資料が散逸したため、その後急遽、再度資料の収集をした上で、不完全という意味だと思いますが、『横浜市史稿』という表題で、1931年から3年にかけて、全11冊が刊行されました。 これは政治編、風俗編など分野別の構成になっています。
この『横浜市史』は、貿易商工業都市としての横浜を、経済史を中心に解明するという編集方針でした。 その意味で大変特徴のある市史で、非常に水準の高い研究論文も収められており、日本経済史の発展にも大きく寄与した成果であったと思います。 市制百周年を前に、その続編を出したいということになり、今回の編集委員会が発足したのが1985年(昭和60)です。 市制百周年の1989年から刊行を開始し、平成15年度、完結しました。 |
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重化学工業化と都市化の2本の柱で編集 |
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高村 | 『市史 II 』を始めるに当たって、高い学問的レベルを維持することは継承しながらも、横浜市自体の歴史的な展開も踏まえて、より広く解明したいと考えました。
その場合、重化学工業化が大きな柱になりますが、もう一つ都市化ということを柱に、この2本の柱を軸に、できるだけ広い視野から横浜市の現代の様子を解明したいというのがねらいでした。 時期的には、1930年(昭和5)、昭和恐慌と呼ばれた出来事があり、政治的には、市会議員選挙が初めて普通選挙で行われた年を始点に、そこから戦時にいたる時期を第1巻で扱う。 そして、占領から戦後復興にかけての時期が第2巻。 1955年(昭和30)ごろからの高度経済成長期の区切りのよい年として、1975年あたりまでを第3巻で扱うことにしました。 また視野をできるだけ広くということで、各分野の当時の若手の方々に編集委員をお願いしました。 多くは30代の方で、延べにして13名で進めてまいりました。 資料編は、しばしば見られるような、通史編成に対応させた資料のダイジェスト版ではなく、収集した貴重な資料をなるべくまとまった形で収録することを心がけました。 当初は10年計画だったのですが、予想以上に豊富な資料が集まったこともあり、2度計画を延長し、通史編・資料編ともにかなり拡大して、結局19年間をかけて編集、刊行を進めてきたわけです。 |
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国際化・工業化・都市化の三つの局面をどう組み立てるか |
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石塚 | 私は出身は東京なのですが、横浜に転入して40年経過しましたから、横浜での居住期間のほうが長い。
しかし研究では東京の都市史をやってきましたので、いわば「横浜都民」です。 ですから東京と横浜の両方の立場で見ることができるわけですが、まずそれに先立って、ほぼ20年間の長期にわたり、この重要、そして困難な事業を完結させた関係者の方々に横浜市民の一人としてお礼を申し上げたい。 私は、研究の中心が19世紀なので、多少的外れなことを申し上げるかもしれませんが、私がもっとも興味がありましたのは、とくに通史編について、どういう組み立てで横浜の都市像または歴史像、つまり都市のイメージが描けるかという点です。 前回の『横浜市史』では、生糸貿易の分析が主要な柱の一つになっていた。 横浜は港町ですし、日本で最大の外貨獲得商品として生糸貿易が続いていたわけですから当然ですが、今度は重化学工業化と都市化の2本の柱でまとめられたことには賛成です。 ただ、横浜は19世紀半ばに開港した後も、さまざまな形で国際都市としての側面を持っていたと思います。 つまり国際化ということですね。 そこには外交史や貿易史、また、多数の中国人も含めて外国人の問題、それから戦争と占領の問題も入りますね。 もう一つは重化学工業化、言い換えれば京浜工業地帯がどのような形で形成・発展してきたのか。 中小企業も含めた工業化があります。 さらに都市化の問題では、住宅地などの拡大、また第2次世界大戦後、横浜は東京の首都圏に含まれる。 要約すれば、国際化・工業化・都市化という三つの局面があって、それらが段階的に移行して、お互いが影響し合い、しかも各時期で比重を変えながら重層化し、横浜市という都市ができ上がってくる。 |
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重層的な都市を広い視野で解きほぐす |
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高村 | 今、横浜の都市としての性格を重層的とおっしゃいましたが、まさにそのとおりで、まず貿易都市という性格があって、それに工業都市が乗っかり、さらに住宅都市という要素が加わり、簡単に言えば三層構造が混在している都市だと思うのです。
それをどう解きほぐしていくか。 都市史はまだ非常に若い研究分野ですので、私どもは方法論とか議論とかではなく、とりあえず手探りでやってみようということで、かなりトレンチを入れたつもりです。 ハード面で言いますと、都市計画とか港湾設備の問題を正面から問題にした。 ソフト面で言うと、市民生活を立てたということが言えます。 |
つづく![]() |