Web版 有鄰

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有鄰


平成16年4月10日  第437号  P4

○座談会  P1 P2 P3  横浜は「昭和」をどう歩んできたか (1) (2) (3)
石塚裕道
高村直助大西比呂志
○特集 P4 世阿弥と金春禅竹   松岡心平
○人と作品 P5 田辺聖子と「残花亭日暦」


『精霊の王』表紙 世阿弥と金春禅竹
=『精霊の王』を読んで=
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松岡心平
松岡心平氏
『精霊の王』   松岡心平氏
 ☆『精霊の王』  中沢新一著 2003/11 講談社刊 2,415円(5%税込) 

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 世阿弥の娘婿の金春禅竹についての論
 

最近読んだ本の中で、衝撃的におもしろかったのが、中沢新一さんの『精霊の王』(講談社)である。

この本は、世阿弥の娘婿の金春禅竹[こんぱる ぜんちく]についての論であると同時に、現代を生きるわれわれにとっての思考の未来記でもある。

二値原理で作動するコンピューター、そのシステムにのりながらグローバル化しカジノ化する資本主義、その先端に聖書を読んでいるのかいないのかわからないブッシュ大統領たちがいて、それをアルカイダがいくら攻撃したとしても、所詮は、父性的原理中心の一神教的世界観に染められた寒い風景がひろがるだけの話かもしれない。

これに対抗しうる思考として、中沢さんが取り出してきたのは、梅原猛さんがいう「山川草木悉皆成仏」の環境主義の根っこにもあたるような、さらに根源的な母性的思考である。
 

 宿神の世界を「翁」一元論として捉え直した禅竹

東京の地名「石神井[しゃくじい]」の「石神」と重なり合い、多様な表記と読み方を持ちつつも「宿神[しゅくじん]」といちおう整理することができる、日本の古層の神々の世界。 それは、柳田国男が『石神問答[いしがみもんどう]』で追求しつつ、その解明を途中で放棄した世界であり、キリスト教がおおいかぶさる以前のヨーロッパの古層の神々の世界、とくにケルトのドルイド僧たちの神話的思考にまさに重なるような世界である。

この宿神の世界を、日本ではじめて追求し、整理した男がいた。 金春禅竹である。 彼は『明宿集[めいしゅくしゅう]』を著わし、その中で、能の「翁[おきな]」は宿神であると断じつつ、宿神の世界を「翁」一元論として捉え直した。

この金春禅竹の思考に寄り添いながら、中沢さんは、そこから日本が生み出し得た根源的思考の可能性を問いかける。

中沢さんは、こうも言っている。

  <スピノザの哲学が唯一神の思考を極限まで展開していったとき、汎神論にたどりついていったように、金春禅竹の「翁」一元論の思考も、ついにはアニミズムと呼んでもいいような汎神論的思考にたどりつくのである。 これほどの大胆な思考の冒険をおこなった人は、数百年後の折口信夫まで、私たちの世界にはついぞあらわれることがなかった。>

たしかにそうだと思う。

ただ金春禅竹が、汎神論的思考へと極端に踏み出していくきっかけをつくった人物は、まぎれもなく、岳父の世阿弥であっただろう。

スピノザが、デカルトの精神と物質の二元論哲学(現代のわれわれの思考のベースである)に強く反発することで、極端な一元論へと傾斜していったプロセスとよく似たことが、世阿弥と禅竹の間におこっている。

世阿弥自筆の金春禅竹宛ての書状  <宝山寺蔵>
世阿弥自筆の金春禅竹宛ての書状  <宝山寺蔵>
 

 世阿弥の二元論の極致が「離見の見」

世阿弥は、もちろんデカルトのように精神と物質の二元論を考えたわけではないけれども、ものごとを「二」に分けることで対象を明晰に認識しようとし、「一」の陶酔に陥ることをあくまで避けようとする、その意味での二元論の人であった。

その極致が、『花鏡[かきょう]』で説かれる「離見の見」説である。 それは、舞の流動に身をまかせている演者が陥りやすい陶酔に、鋭く釘をさす演劇的身体の二元論である。

「箱崎」 (世阿弥作 シテ・観世清和)
「箱崎」 (世阿弥作 シテ・観世清和)
<撮影/林義勝>
 
  <舞に、目前心後といふことあり。 「目を前に見て、心を後ろに置け」となり。>

と世阿弥は始める。 舞を舞う演者である自分は、目前や左右までは見ることができる。 それは「我見」である。 しかし、「我見」では、自分の後ろ姿まで見ることはできない。

  <目前左右までをば見れども、後ろ姿をばいまだ知らぬか。>

である。 そこで世阿弥は、「離見」を持ち出す。

  <見所(観客)より見る所の風姿は、我が離見なり。 ……離見の見にて見る所は、すなはち見所同心の見なり。 その時は、我が姿を見得するなり。>

つまり、観客が舞台上の自分を見ている視線、これに同化するようにして自ら見て、自分の眼では決して見ることのできない、自分の後ろ姿まで見よ、自分の姿の全体を捉えよ、と言っているのである。

  <離見の見にて、見所同見となりて、不及目[ふぎょうもく](肉眼の届かない)の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし。>

もちろん、ここでいわれていることは、舞だけにとどまらず、舞台上の役者の心身のあり方に敷衍[ふえん]できるだろう。

俳優は、演じている自分とそれを客観的に認識している自分をつねに合わせ持たなければならない。 演技や役に没入する自分と、それを醒めた目で見つめる自分との二重性を生きることが、すぐれた役者の要件だというのである。
 

 舞台上の「二」を完璧に生きた美空ひばり

美空ひばりが、ポロポロ涙を流しながら『悲しい酒』を歌って、深いメッセージがとどくのはなぜか。 美空ひばりの中で、歌のシチュエーションに深く入って涙を流す自分と、それを醒めた目で見つめている(観客と同化している)自分とが、大きな振幅を持って共存しているからだ。 ひばりは、舞台上の「二」を完璧に生きている。

観客は、没入しているだけの役者を見ると、必ずしらけてしまうものだ。 観客は、むしろ、ひばりの醒めている自分を通して、彼女の歌の世界に没入していくことができる。 そのような仕掛けが、観客と役者の間に生じていることを、世界ではじめて明瞭に認識したのが、世阿弥であった。

このように、「二」の世界を徹底的に生きる世阿弥がいたからこそ、逆に「一」の世界へ遠くまで歩む金春禅竹が出現したのである。
 

 ドゥルーズの哲学をバックに禅竹を読み込んだ中沢新一

世阿弥と禅竹によって、掘削された日本中世の精神世界の深さは、デカルトとスピノザによって拓かれた精神世界の広さ・深さに劣らないものだ。 それ自体が、思想的事件であった。

中沢さんが、スピノザと金春禅竹を対比するとき、そこには明らかにジル・ドゥルーズの影がある。 つまり、ドゥルーズが、スピノザの一元論を過剰とも思われる身振りで読み込んでいったのと同じように、中沢さんは、ドゥルーズの多様性の哲学をバックに金春禅竹を過剰に読み込んだ。

これによって、金春禅竹は、日本思想史上で、新しく発見されたのである。

ただ私は、中沢さんのドゥルーズを媒介にした禅竹読みが過剰だとはちっとも思っていない。

少なくとも、『明宿集』を発見した能楽研究界の大御所表章さんが、いまだに「金春禅竹は非合理だ」と切って捨てる世界観の狭さ、あるいは知的怠慢を怠慢とも思わない傲慢さから見れば、中沢さんの態度はきわめて誠実だろうと思う。
 

 世阿弥と禅竹を読むことは日本や世界を考える重要な作業

中沢さんは、日本人は西洋のような哲学思想の深まりは持たなかったかわりに、その思想を諸芸の身体の上に強く彫りつけて表現したのではないか、という見通しを持っていると思う。

私としても、世阿弥と金春禅竹をもっと広く、深く読んでいくことが、これからの日本や世界を考える重要な作業だと思っている。 これは、五十歳近くになってやっと持つに至った確信である。




 
松岡心平 (まつおかしんぺい)
1954年岡山市生れ。 東京大学教授。 観世文庫理事。 中世文学専攻。
編著書:『世阿弥を語れば』(編) 岩波書店 2,415円(5%税込)、『宴の身体 バサラから世阿弥へ』 岩波書店 2,835円(5%税込)、『中世芸能を読む』 岩波書店 2,310円(5%税込)、『中世を創った人びと』 新書館 2,940円(5%税込)、『能 中世からの響き』 角川書店 2,940円(5%税込)、ほか。
 
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