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平成16年4月10日 第437号 P2 |
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○座談会 | P1 P2 P3 | 石塚裕道 |
○特集 | P4 | 世阿弥と金春禅竹 松岡心平 |
○人と作品 | P5 | 田辺聖子と「残花亭日暦」 |
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座談会 横浜は「昭和」をどう歩んできたか (2)
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(約〜KB)… 左記のような表記がある画像は、クリックすると大きな画像が見られます。 |
◇「大横浜」建設と工業都市への脱皮をめざした昭和前期 |
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編集部 | 『市史 II 』は横浜市が関東大震災の壊滅状態から復興した時期から始まりますね。 |
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高村 | 1929年(昭和4)に、震災復興事業としていろいろな記念式典が行われます。 通史編の第1巻はそこを踏まえて次の時期から始まります。
そこでは「大横浜」の建設ということが大きな課題になってくる。
産業的には、横浜港の大堤防の建設と市営の埋立事業があります。 この埋め立てで、恵比須、宝、大黒の三つの町ができる。 三つをセットにして従来の横浜の規模をより広げたうえで、そこを中心に、本格的な重工業・大港湾都市につくり直していく。 ところが、一方では横浜市自体はものすごい財政難を抱えている。 極めて矛盾に満ちたなかで動いていったと言えると思います。 震災復興の過程で芝浦製作所(東芝)のような当時の大企業が進出してくるのが顕著になって、市自身がその受け皿として埋立地をつくり、拡大していく。 それ以前の横浜はどちらかというと貿易都市で、造船業もありましたが、産業としてはもう一つ見劣りがするというのが正直なところだと思うんです。 急速に重化学工業化が進んで、それをさらに市自身が推進する。 |
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編集部 | 工業都市への脱皮ということでしょうか。 |
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高村 | それを非常に意識したと思います。 それから貿易では、1930年の世界恐慌で命綱の生糸貿易がだめになる。
レーヨンなどに押されていき、貿易の主軸も、地元の工業化と連動した形の工業港といったものにだんだん脱皮していく。 その転換が始まった時期でもあると思います。 |
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震災復興のための米貨公債が市財政のガンに |
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高村 | 当時、横浜市は震災復興のために大変な借金をしていた。 それもほぼ半額がアメリカで、米貨公債、つまりドルを借りた。
もともと日本は返すのが困難と見られていたんですが、恐慌の対策で日本は金本位制を離脱したので、1ドルが約2円だったのが5円ぐらいに下がる。 輸出貿易にはプラスなんですが、借金はいくら返しても残高はふえていく。 この借金は当時の内務省の指導によったんですが、利子等は面倒を見ると言っていた内務省もそれどころではなくなり、約束違反だと言ってもめる。 当時、米貨公債は横浜のガンだと言われていました。 市の財政も今の国家財政と似ていて、借金を返す部分がぐっとふえて、一般に使えるお金がどんどんなくなっていく。 市営の埋立事業も市債を発行して何とか実現した。 当時の半井清[なからいきよし]市長は官選市長ですが、その手元にあった資料で、米貨公債の借金地獄ぶりがはっきりわかります。 この借金地獄から逃れられるのは、太平洋戦争直前、1941年になってからです。 東京が、かねてからの念願で東京開港を主張して、横浜としては絶対反対でもめていたんですが、結局、東京開港を認めるかわりに、横浜市の借金の相当部分を、実質上、政府が肩がわりする。 それでようやく身軽になるんです。 |
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都市部だけでなく農村部も併合した第3次市域拡張 |
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「大横浜」の建設は国家総力戦に対する工業地造成が目的か |
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編集部 | 大横浜計画は何のためなんですか。 |
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高村 | 第1次大戦のころから、横浜に限らず、何か説明抜きに大都市はいいことだというのがあったようですね。
大阪で『大大阪』という雑誌が出ますし、横浜では『実業之横浜』が『大横浜』に改題する。 |
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石塚 | 東京もそうですね。 「大東京」という考え方です。 「大きいことはよいことだ」という発想ですね。 |
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高村 | その場合にはどこを意識しているんですか。 |
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石塚 | 1920年代半ばのアメリカの都市計画なども日本の行政担当者の視野に含まれていたようですが、そのまま実現したわけではない。
ただ、「大東京」の誕生(昭和7年)後、拡張された近郊の市域の整備が大変なんです。 学校の問題とか、行政組織の再編といった問題をずっと引きずっていく。
これらはそう簡単には解決できなかった。 |
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高村 | 横浜もそうです。 合併されるほうは負担がふえるんじゃないかという不安を持つから、ふやさないと約束する。
結局、水道が決め手になることが多かったですね。 |
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大西 | 鶴見など特にそうですね。 その後、周辺部の橘樹郡[たちばなぐん]あたりの動きを見ると、編入の要望として道路を整備してほしいといっている。
東京と横浜の間にあって、都市化が両方から徐々に押し寄せてくるなかで、都会志向が周辺部にあった時代でしょうね。 |
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高村 | 第6次の拡張はちょっと異色なんです。 横浜は、昭和の初めには6大都市で5番目だった市域の広さが、この第6次で、東京の次の第2位になる。
かなり異例の合併ですね。 なぜというのは明確には言えないんですけどね。 |
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大西 | 国家総力戦に対応する工業地帯の造成ということがよく言われますね。 |
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高村 | 市街地らしいところが余りないのに、市になるというのはどうかと内務省も首を傾けた。 ある意味、戦時だから強引にできた。
戦争に備えての工場の分散とか、住宅地の確保とか、疎開につながるような論理があったかもしれませんね。 |
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1度は急増した人口も戦時下には疎開などで3分の2に減少 |
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編集部 | 戦時体制のなかでの横浜市は、翼賛選挙など、いろいろ行われている。 |
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大西 | 横浜は、震災後の有吉市長のときもそうでしたが、大きな危機のとき、市内の政争をやめ、結束して市長を支える。
これは有吉市長以来の協調体制で、半井市長のときにもそれがあった。 戦時下では翼賛体制に移行しますが、横浜の政財界はかなり結束した状態で市政の運営が進みます。 この時代の横浜は、非常に景気がいいんです。 伊勢佐木町などは賑わっていますし、戦争が始まったとは思えないような活気があった。 |
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高村 | 1930年代は、人口も急増して、見かけ上、すごく繁栄した時代なんです。 |
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編集部 | そのころ都市計画はないのですか。 |
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高村 | 米貨公債問題が解決した1941年(昭和16)に都市計画をつくるんです。 ところが、お金はできたけれど、今度は統制で資材が手に入らなくなる。
絵にかいた餅で終わってしまう。 非常に皮肉ですね。 年末には太平洋戦争が始まり、翌年になると米軍による本土初空襲がある。 |
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編集部 | 昭和20年になると、市の人口が3分の2ぐらいに減少しますね。 |
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高村 | 1度100万都市になったんですが、途端に疎開などで減って、60数万人になってしまう。
5月29日の空襲では、517機のB29が飛来して市の中心部を焼き尽くし、7,000人以上の方が亡くなったと推定されています。 |
◇日本占領の拠点となり復興が遅れた戦後期 |
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編集部 | 第2巻は、敗戦から高度成長が始まる以前の昭和30年ぐらいまでが描かれていますね。 |
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高村 |
アメリカで第8軍関係の資料を大分集めまして、その組織等が明らかになりました。 第8軍の軍事支配地域は当初東日本だけだったんですが、間もなく全国に及び、その司令部は中区の横浜税関ビルにあった。 それもあって終戦連絡横浜事務局が日本側の窓口になるわけで、そういう意味では市が日本全体の占領政策の要の位置になっていましたし、それに伴って接収面積が非常に広かった。 特に中心部の中区の3分の1ぐらいが接収され、港湾は大部分が接収という状態が続きます。 ですから、沖縄は別として、占領の影響がもろに出た地域だと思います。 |
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石塚 |
今回、太平洋戦争直後の米軍進駐について、外国の資料をたくさん集められた。 それを基礎にして自治体史の編集を進めたことは、他に例を見ませんね。 |
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アメリカの国立公文書館から米第八軍の資料を収集 |
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大西 |
ワシントンのナショナル・アーカイブス(国立公文書館)には、東京裁判や横浜裁判の資料も随分あります。 単に占領期の資料に限らず、直接横浜にかかわらないものも『市史 II 』として収集しました。 アメリカ議会図書館には、米軍が1945年、終戦直前に撮った航空写真などもあります。 航空写真や地図は他都市に先駆けて集めた重要な資料だと思います。 |
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高村 | 第8軍関係の地図を本編第2巻(下)の口絵に使いましたが、テキサスアベニューなど、横浜市内の地図に英語の名称が入っているのがあります。 |
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大西 | 国や自治体史では、終戦直後の状況について、改めて調査をする必要がでてきています。 当時、日本軍は資料を焼却するなど、かなり処分しましたので、戦時期の状態を明らかにするにはアメリカの資料が非常に有用であると最近認識されております。
とりわけ第8軍の資料にはそういったものが含まれていますので、国や他の自治体史からの問い合わせもあります。 |
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高村 | 戦後すぐ、米国戦略爆撃調査団が爆撃の効果を調べるためにやってきて、日本人からいろいろと調査をした膨大な資料もあります。
これは国会図書館政治資料課でも集めていますが、全部ではないんです。 我々が集めたものの中には、国会図書館にもない部分がありまして、情報提供をしたこともあります。
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メリーランド大学のプランゲ文庫にも注目して調査 |
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大西 | 占領期の資料で言えば、メリーランド大学のゴードン・プランゲ文庫が重要です。 これは占領直後の日本各地の新聞・雑誌のコレクションとして、最近大分知られるようになりました。 ゴードン・プランゲ氏はGHQの参謀第2部(G II )の歴史セクションの課長で、もともとはメリーランド大学の歴史の先生です。 真珠湾攻撃の小説『トラトラトラ』の原作者としても知られてます。 彼はGHQで勤務する間に、当時行われていた日本での検閲のために全国各地の新聞や雑誌、壁新聞まで含めて収集した。 それをアメリカに持ち帰り、母校のメリーランド大学に寄贈したものがプランゲ文庫です。 1945年から48年ぐらいまでの間の、全国のそれこそ同人誌から、カストリ雑誌みたいなものまで、日本には残っていないような貴重なものが保存されています。 その存在は、一部では知られていたんですが、地域の資料として注目して集めたのは『市史 II 』が最初で、それによってメリーランド大学でもその価値を認識するようになったんです。 |
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高村 | リチャード・デヴェラルという人の資料は、カソリック大学から収集した、普通、記録に残らないような占領期の労働関係の資料です。
占領軍の物資の陸揚げなどに港湾労働者が大規模に雇われていて、「組」に支配されていた。 組組織があって「組」のボスがいるということを、非常にビビッドに調査していて、横浜の港はずいぶん賑わっていたことがよくわかる。
これは日本側の資料では全くわからないんです。 資料編の第5巻に収録してあります。 |
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石塚 | そういう資料のあり方から見ますと、東京にも似た共通点があって、関東大震災と東京大空襲という2回の大災害のなかで、都心にある公共機関などの資料は、ほとんど焼失ないし散逸してしまった。
そうした部分を外国の資料から追跡するという調査・研究の突破口を開いてくださったわけですね。 |
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高村 | 1949年には日本貿易博覧会をやって復興の気炎をあげ、翌50年には横浜国際港都建設法が成立しますが、これは実は財政の裏づけがない議員立法で、一種の精神論だったんです。 1941年につくった都市計画は、戦争で実行できなかった。 戦後は市街地の中心部が米軍に接収されて麻痺しているのでできない。 そういう状態の中で高度経済成長期に入っていくことになる。 これは後で非常に大きな問題になっていきます。 |
つづく |