Web版 有鄰

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有鄰
(題字は、武者小路実篤)
有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 「鄰」は「隣」と同字、仲間の意味。

平成16年7月10日  第440号  P1

○座談会 P1   横浜の空襲、そして占領の街 (1) (2) (3)
赤塚行雄/今井清一/諸角せつ子/松信裕
○特集 P4   チャールズ・ワーグマンが語る 横浜外国人居留地の生活
ジョゼフ・ロガラ
○人と作品 P5   天童荒太と新「家族狩り」


座談会

横浜の空襲、そして占領の街 (1)

評論家・中部大学名誉教授   赤塚行雄
横浜市立大学名誉教授   今井清一
俳人・横浜文芸懇話会会長   諸角せつ子
 有隣堂社長    松信裕
 
馬車道(1945年9月20日)
馬車道(1945年9月20日)
米国防総省蔵 ジャンプ約120KB

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右から、諸角せつ子氏、赤塚行雄氏、今井清一氏、松信裕
右から、諸角せつ子氏、赤塚行雄氏、今井清一氏、松信裕

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    はじめに
 
松信  

第二次世界大戦末期の昭和20年、米軍のB29爆撃機による都市市街地への焼夷弾爆撃が激しくなりました。 すでに60年近くがたち、人々の記憶は薄らいできていますが、横浜にも空襲が頻々と続き、5月29日の大空襲では市街地の大半が焼け、多くの犠牲者が出ました。 また敗戦後、横浜は日本全国の占領の拠点として広い範囲が接収され、市民生活にも大きな影響を与えました。

イラクの戦争も泥沼化しつつあるように見えますが、ご出席いただきました赤塚行雄先生は、イラクやアフガニスタンで戦火に傷ついた子供たちの姿に、空襲・戦時下の記憶が重なり、「戦争の無残さだけは忘れてはいけない。 そして、伝え続けなければならない。」との思いから、県立横浜二中(現・県立横浜翠嵐高校)の生徒だった当時のことを自伝的に書かれた『昭和二十年の青空竏忠。浜の空襲、そして占領の街』を、当社から出版されました。 先生は昭和5年、神奈川区斎藤分町のお生まれで、現在もそこにお住まいです。

本日は、横浜の戦時下の様子、空襲、占領とはどんなものだったのか、また、若者たちはどのように考え、生きていたのかなどを、お話しいただければと思います。

今井清一先生はご専門の政治史のお立場から、日米両方の資料を駆使し、第二次世界大戦における空襲をご研究で、当社からも『大空襲5月29日』を出版されております。

諸角せつ子先生は俳人で、横浜文芸懇話会の会長を務めておられます。 昭和6年、南区睦町のお生まれで、現在もそこにお住まいです。 当時、山下町の横浜市立女子専修学校に通っておられました。 中区・南区は空襲の被害もひどく、敗戦後は至るところに占領軍のカマボコ兵舎が建ち並んでいました。 諸角先生は、この一部始終をご覧になっておられます。
 


  ◇「生きることは戦うこと」という時代
 
松信  

まず、戦時下はどのような感じだったのでしょうか。
 

赤塚  
紀元二千六百年を祝う伊勢佐木町
紀元二千六百年を祝う伊勢佐木町
(1940年) 撮影/中野武正 大きな画像はこちら約120KB
 

私は昭和5年生まれです。翌6年に満州事変が起り、太平洋戦争へと拡大していく過程で少年になっていくわけで、生きることは戦うことという時代でした。

私が栗田谷小学校の三年生ぐらい、昭和15年ごろですが、「スパイ」という言葉がはやりました。 横浜には結構外国人がいましたでしょう。 当時、野毛山の剣道の道場に通っていたんですが、外国人を見て、「スパイじゃないの」って話してたのがご本人に聞こえて、「スパイじゃないぞ」と言って追いかけられたことがあった。 紀元二千六百年のお祝いのころです。
 

松信  

伊勢佐木町に「防諜強化」のスローガンが掲げられている写真がありますね。
 

今井  

身近にも敵がいるんだと警戒心を持たせ、国民をお互いに監視させる。
 

赤塚  

本牧の海岸あたりに「撮影を禁ずる」といった立て札がありましたね。木に墨で書いた札だったことを覚えています。
 

今井  

要塞地帯になるんです。横須賀と横浜の南部、今の金沢区あたりは前から東京湾要塞地帯なんですが、戦争になると横浜の中心部も加えられ、写真を撮るには要塞司令部の検閲が必要になるんです。 地図も、ざっとしか描けない。
 

諸角  

私は子供のころ、ちょっと日本的な顔じゃなかったので「アメリカ人の子じゃないの」と後ろで言うのが聞こえたりしましたよ。
 

松信  

諸角先生は、南区のお生まれですよね。
 

諸角  

そうです。 私は共進国民学校だったのですが、授業の前に、「海行かば」を歌わされたんです。 万葉集の歌に、非常に美しいメロディーがつけられていて、とても印象に残っています。
 

赤塚  

私たちも授業で万葉集や和歌を教わりましたが、自分の人生なんて、源実朝の歌の「大海の磯もとどろに寄する波 われてくだけてさけて散るかも」だと思ってましたね。
 

諸角  

私の父は南区の蒔田で、男兄弟全員が集まって、パジャマやスリッパをつくる輸出業を、人も使ってかなり大きくやっておりました。

ところが、それが昭和16年ごろでしょうか、第二次世界大戦が始まるころには、すっかりだめになりまして、父の兄弟たちは、それぞれ小さな菓子屋とか乾物屋とか、商店を経営するようになり、一家としては大変だったと思うんです。
 


   昭和13年には外貨不足で輸入が困難に
 
松信  

今井先生は、もう少し上の世代でいらっしゃいますよね。
 

今井  

皆さんより6歳ぐらい上ですね。
 

赤塚  

じゃ、軍隊体験があるわけですね。
 

今井  

私は昭和20年1月に特別甲種幹部候補生で、東京小平の陸軍経理学校に入りましたが、卒業しないうちに敗戦になります。

昭和11年に群馬県立前橋中学に入学しますが、二・二六事件の直後で、横浜でも軍需景気が始まったころです。 12年7月に日中戦争が始まると、上海では苦戦するが南京を攻略して気勢をあげる。 ところが翌13年に入ると、外貨不足で輸入が困難になり綿製品と鉄製品が統制で手に入らなくなる。 輸出を伸ばせば外貨ができ、軍需資材を輸入して戦時体制を進めていけると考えていたのですが、そうはいかなかった。
 

諸角  

父たちの輸出業がだめになるのもそのころからではないでしょうか。
 

松信  

昭和13年に国家総動員法が成立し、戦時体制に入るわけですよね。
 

今井  

議会無視の法律だから、議会では表向きに反対できないのですが、不満が強かった。 だから最初はいくらか控えめで、昭和16年の改正でひどく露骨になります。
 

赤塚  

最初のころは、まだ物がある感じなんですが、質が違う。 これは衣類にあらわれるんです。 女学生の制服なんかも、木綿の代用品のスフ(人造綿糸)が入り出すと、形にどこか力がない。
 

今井  

革靴もなくなる。
 

赤塚  

私は布の靴をはかされましたよ。 防水剤が塗ってあって、一応編み上げ靴になっているんですが、底は板みたいなゴムでした。
 

今井  

その間にサメ革の靴もありました。
 

諸角  

ありましたね。 覚えています。
 


   どの中学生もカーキ色の制服と戦闘帽に
 
赤塚  

私が中学に入るあたりから兵隊のような服装になる。 黒い学帽じゃなくなってカーキ色の戦闘帽に校章をつける。 制服も、横浜一中(現・県立希望ケ丘高校)とか、二中、それぞれに黒い線が2本入っているとか、形があったんです。 それがなくなって、どの中学も同じカーキ色の服と戦闘帽になっていった。
 

松信  

食糧事情が非常に悪くなるのはいつごろからなんでしょうか。
 

赤塚  

米の飯を食べるために、買い出しは戦中からありましたし、サツマイモとジャガイモを代用食としてよく食べていました。
 

今井  

お米は瑞穂の国だから大丈夫と言っていたのに、昭和15年の初めには不足して、16年から配給になります。 ヤミ取引も横行しますが、19年には乏しいなりのルートができ、雑炊食堂も始まります。 ビールが1杯だけ飲める酒場もできます。 東京では国民酒場、川崎で勤労酒場、横浜では市民酒場でした。 市民酒場はついこの間まで残っていました。
 


  ◇昭和17年4月米軍機が飛来、戦争が身近に
 
赤塚  

まだそのころは、戦いは日本本土ではなくて外国で行われていたので、戦時下とはいえ、非常にのんびりした、平和な日常生活が、ずうっと続いていたわけです。

それが突然、横浜上空にアメリカの飛行機が1機あらわれた。 昭和17年4月18日で、私は小学校五年生でした。

自分の部屋の畳の上で腹這いになって『少年倶楽部』を読んでいたら、爆音が聞こえて、家がガタガタ揺れたんです。 急いで外をのぞくと、星のマークをつけた、暗緑色の太い飛行機が超低空で飛び去るのが見えた。 革の飛行帽をかぶった飛行士の顔も見えましたね。 日本の家屋は、あのころ大抵トタン屋根でしょう。 ほんとに低空で来ますから、びりびり震えるんですよ。
 

今井  

ドゥリットル航空隊による本土初空襲で、空母ホーネットを飛び立ったノースアメリカンB25双発爆撃機16機が東京や横浜、名古屋、大阪などを分散して攻撃したんです。
 

赤塚  

これは反撃ののろしのようなもので、それから戦況がだんだん変わっていくわけですが、遠かった戦争が急に神話的に拡大して、真上に出てきたという感じでした。
 

今井  

4月18日は日本軍の厄日で、翌年のこの日には山本五十六連合艦隊司令長官が戦死します。
 


   昭和19年末から勤労動員で昭和電工に通う
 
松信  

そのころ、学校の授業はどうだったんですか。
 

赤塚  

昭和18年の一年生のころは授業をやっていて、最初は英語も、漢文もちゃんと習いました。

19年の末ごろからは、毎日、新子安の昭和電工に勤労動員で通っていました。 そこには横浜高等工専(現・横浜国立大学工学部)の学生とか旧制早稲田大学予科生の早稲田高等学院の学生なども動員されていました。

年上の学生さんたちと、しょっちゅうおしゃべりをしまして、それはそれで勉強になったという気がするんです。 女学生は来ていなかったように思います。

あるとき、勤労動員の帰りに、東神奈川駅の近くの慶運寺のあたりで、瑞穂埠頭のほうからアメリカ兵の捕虜の一隊が行進してくるのを見たんです。 みんな背が高くて、体格がよくて堂々としている。 先導している日本の憲兵のほうが背中を丸めて、なんだか小さく見えましたね。

雨が降っていて、アメリカ兵は戦闘帽みたいなものをかぶっていたりするんですが、レインコートがなくて、蓑をつけさせられているんです。
 

松信  

田んぼで使うような蓑ですか。
 

赤塚  

そうです。 だけど、それでもすごく格好よく見えて、思わず「こういうのが敵なのか」と、たじろぐというか、びっくりした。 恐らく瑞穂埠頭で働かされていたんじゃないでしょうか。
 

松信  

諸角先生と赤塚先生とは大体同年代でいらっしゃいますよね。
 

諸角  

一学年下ですが、私は非常に目が悪いうえに、病気をしたりで一年おくれて入っていますので、結局、二学年下だと思います。 一年生で終戦でした。
 

赤塚  

そうですね。 私は三年生でしたから。
 

諸角  

20年の4月に女子専修学校に入ったばかりで勤労動員にも行かなかったし、二つ年下の弟は箱根へ学童疎開していましたが、私は疎開もしなかったという、ちょうどはざまの学年なんです。

授業も、空襲と言ってはやめていましたけれど、英語がなかったぐらいで、あとは普通でしたね。
 

松信  

学校は山下町のどの辺にあったのですか。
 

諸角  

中華街の入り口の、今の港高校の場所です。
 


   捜真女学校の丘でアメリカ兵の死体と遭遇
 
赤塚  

勤労動員の途中で、警戒警報だから帰れと言われたことがあるんです。 海辺にある工場から、新子安の駅の方へ歩いていたら、超低空でふいに艦載機が1機、下りてきた。 そして一直線に、ダダダッと機銃掃射したんです。 地面に、まっすぐに一列に穴があくんです。
 

松信  

追いかけられたんですか。
 

赤塚  

そうなんです。 さっと横に飛びのいたので無事だったんですが、ああいう経験をした人は結構いるんじゃないですか。
 

今井  

機銃掃射は艦載機によるもので、20年2月には米軍の機動部隊がやってきて艦載機が一日中、各地を飛び回って波状攻撃をしました。
 

赤塚  

非常に低空でした。 低空のほうが安全だったんじゃないかな。
 

松信  

低空だと、高射砲にはやられないですからね。
 

赤塚  

神奈川区の捜真女学校の近くの丘に、高射砲陣地があったんです。 われわれ近隣の住民は、撃ってくれないかと、その高射砲に期待しているんですが、なかなか撃たないし、撃っても黒い煙がポッポッと出るばかりで、敵機は悠々と通って行く。

それからもう一つ、すごくよく覚えているのは、4月16日の朝のことです。 私はいつも、中丸の捜真女学校の脇を通って三ツ沢の横浜二中へ通っていたのですが、ふいにそこで、アメリカ兵の死体を見たんです。

飛行機は撃ち落とされて、女学校の礼拝堂の屋根に、折れた翼がひっかかっていたんです。 神がその翼をそっと支えているようで、「神 天にしろしめす」という感じでした。 戦争中ですけれども、何か春の日の、やさしい感じを受けたのは確かです。

その先にアメリカ兵が、両腕を頭のほうに回して、死んでいるんですけれど、穏やかに眠っているようで、血なんか全然見えなかった。
 

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