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平成16年7月10日 第440号 P4 |
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○座談会 | P1 | 横浜の空襲、そして占領の街 (1)
(2) (3) 赤塚行雄/今井清一/諸角せつ子/松信裕 |
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○特集 | P4 | ||
○人と作品 | P5 | 天童荒太と新「家族狩り」 |
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チャールズ・ワーグマンが語る 横浜外国人居留地の生活 ジョゼフ・ロガラ(山下仁美訳) |
ジョゼフ・ロガラ氏 |
徹底した観察眼で人々の生活を詳細に描写 |
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私が『ジャパン・パンチ』と初めて出会ったのは、10年ほど前、日本に住み始めて間もない頃で、ある日、京都の図書館で復刻版全10巻のセット(雄松堂出版)を見つけ、そこに描かれているイラストに興味をもった。 これまで、横浜外国人居留地について数多くの歴史書が書かれてきたが、『ジャパン・パンチ』ほど、徹底した観察眼で人々の生活を詳細に描写したものは他に例を見ない。 この雑誌は『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』特派通信員として来日したチャールズ・ワーグマンが1862年から1887年の間に横浜で出版したもので、ミスター・パンチとして知られるワーグマンは、そのオーナーであり、漫画家であり、執筆者であり、出版者であった。 『ジャパン・パンチ』はその風刺漫画で有名であり、この雑誌が今日まで人気を保っているのもそれが主な理由だが、ワーグマンの書いた文章を読みながら、彼の描いたイラストと一緒にしてみると、外国人居住者の生活が生き生きと見えてくる。 彼らの幸せな日々、単調な骨折り仕事、個人的な言い争い、余暇をすごしたクラブやスポーツ、日常の活動、そして時には法廷にまで持ち込まれた争い事、等々。 さらに『ジャパン・パンチ』を詳しく読み込んでいくと、その時代の日本の歴史と、日本が国際社会に勢力を伸ばしていった過程をも読み取ることができる。 |
横浜の役人たちと争い続け、日本政府に対する不満も |
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ミスター・パンチはまた、外国人居住者を結束させ、街灯や治安維持といった基本的な公共サービスさえ受けられないことに対して、横浜の役人たちと争い続けた。 これらの意見の食い違いの中には、文化の違い(多分人種の違いも)のため誇張され、悪意に満ちた誤解を招いたものもあった。 一般に当時の外国人は財政的に恵まれており、税金はほとんど払わず、最初の30年間はこれらの公共サービスへの対価すらもなかなか払おうとしなかったのだから、客観的に見れば、このようなサービスを”こんな外国人たち”に提供するのを渋った役人たちの立場も理解できる。 こういった地域の役人たちとの口論以外にも、ミスター・パンチはこの雑誌が発行された期間中ずっと、彼が呼ぶところの”東京人”に対する外国人の不満を繰り返し書き記している。 これらの論争は主に、欧米諸国と無理やり締結させられた不平等条約の撤廃に向けた日本の試みに集中していた。 ミスター・パンチを含む英字新聞の出版者たちは日本政府の条約改正(後には撤廃)への企てを次から次へと痛罵し続けた。 これらの厳しい非難は、居留地住民に新聞を売るための策だと見ることもできるが、外国人たちは、また、いずれは日本における彼らの政治力が低下し、生計を立てていく見込みがだんだんなくなっていくのを見越していた。 だからと言って、ミスター・パンチがいつも日本政府に反対していたわけではなく、時には客観的に支持した。 たとえば、(1)長州藩が下関海峡を通過する欧州の艦船を砲撃した事件(1863−64)に対する賠償を求める訴訟が10年後も続いていることに、いい加減にしろと怒る。 このとき日本政府は既に損害金額の7倍もの賠償金を払っていたのである。 (2)外国人は日本のことを非難する前に日本の言語と文化をしっかり学ぶべきだとも主張した。 彼はまた、日本が国際問題、アジア問題に関わっていくことに対する意見を、相違・一致を問わず表明するのに何のためらいもなかった(一致の場合はただニュースを伝えただけかもしれないが)。
日本が経済的にも軍事的にも強固になっていくにつれて、これらの関与は頻繁になり、ミスター・パンチによる報道もまた頻繁になっていく。 |
繰り返し登場するライバルの英字新聞に対する報復 |
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紙面の大半は住民の楽しみを追求 |
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しかし、これらの極めて重大な問題に『ジャパン・パンチ』の紙面が割かれるのはごくわずかで、ほとんどは住民のささやかな楽しみをどうやって生み出し、追い求めていくかに占められていた。 その代表的なものは居留地で行われたスポーツである。 最も人気のあるスポーツ観戦は、根岸競馬場での競馬であり、人々が集まる格好の社交場となっていた(ただし、これは男性だけで、女性たちは競馬の観戦も他のスポーツへの参加もほとんどしなかったようだ)。
参加型のスポーツでは、テニスとラケットボールの人気が一番で、次は、イギリス人にはクリケット、アメリカ人には野球であった。 それぞれミスター・パンチが描いており、これらのスポーツの日本への導入を記す貴重な記録となっている。 ビリヤードとボウリングはもっとも人気のある非活動的なインドア・スポーツとして描かれている。 釣りと狩猟はアウトドアでの挑戦を好む人が楽しんだ。 アイススケートは氷の張った水田で行われ、冬の間の人気スポーツだった(当時は横浜でも氷が張ったのだ!)。 また、大小さまざまなヨットが早春から晩秋にかけて入江で見られた。 また読者は全てミスター・パンチの視点で語られた記事を楽しんだ。 その主なものを紹介してみよう。 国際料理:彼はフランス料理の素晴しさとアングロサクソン料理の悲惨さを較べ、アメリカ人はポークビーンズしか食べないと言う。 健康状態:知性は胃に宿るらしい。 新来者へのアドバイス:役人に会う時は、親指を鼻先に付け他の指を広げるように勧める(訳者注:日本のアカンベーと同じらしい)。 私たちがミスター・パンチを最も機知に富んでいると感じるのは、シャレの分野である。 彼はドイツ人が皆眼鏡をかけているとからかう(ドイツ人は眼鏡をかけて生まれてくるのではありませんと論じる)。 国内(ドメスティック)郵便(メール)があるなら、野生(ワイルド)郵便(メール)があってもいいじゃないかと屁理屈をこねる(訳者注・ドメスティックには飼いならされたという意味もある)。 親友のコロジオン伯爵ことベアトは新進の写真家にアドバイスを与える(写真家になるには写真とカクテルのつくり方の知識が必須だ)。 そして、読者はフラストレーションが溜まると読者の声欄に手紙を送ることができ、ミスター・パンチはそれを喜んで受け取った。 手紙が悪意に満ちていればいるほど雑誌は売れるし、反論を加えれば、なおさらだ。 一方、ミスター・パンチを愛する読者は卑劣な横浜の外国報道に対する嫌悪感をあらわにし、その中には『ジャパン・パンチ』をこき下ろした新聞も含まれている。
ある人は烏賊(イカ)に模されたと苦情を言い、ミスター・パンチは、「イカを侮辱する気はなかった」と応酬する。 手紙の多くは『ジャパン・パンチ』を面白くするために、ミスター・パンチが自分ででっちあげたのではないかと思われる節もある。 |
近代日本の歴史的出来事に立ち会った証拠を紹介 |
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ミスター・パンチは近代日本の黎明期の歴史的出来事に立ち会った証拠を絵入りで私たちに見せてもくれる。 明治維新によるミカドの東京への御幸、1879年のアメリカ合衆国グラント元大統領の日本訪問、東京が外国人に対してやっと門戸を開けた時のこと(一般の外国人は1869年まで、横浜から出ることを許されていなかった)、初めてのマティニとクラップというゲーム等々。 ミスター・パンチがこれらの歴史的事件にすべて関わったというのはジャーナリストの誇張ではあるだろうが、封建社会から近代工業社会へと変貌していった過渡期の日本を理解する上で、『ジャパン・パンチ』はたいへん魅力的である。 私は、“The Genius of Mr.Punch”(『ミスター・パンチの天才的偉業』)を、 彼の業績は日本の専門家の間ではよく知られているが、彼の遺産をごく一部の研究者だけの宝にとどめておくのは勿体なさすぎるではないか。 この本は一般読者が対象である。 私は、ごく普通の人がワーグマンの作品に触れて、彼のユーモアに富んだ表現をたっぷりと心ゆくまで楽しんでくれることを願っている。 |
Jozef Rogala (ジョゼフ・ロガラ) |
1936年アメリカ生れ。 日本文献研究家 著書:『“A Collector‘s Guide to Books on Japan in English”』 Curzon Press,UK(カーゾン・プレス社 英国)。 『“The Genius of Mr.Punch”』 有隣堂 3,675円(5%税込)。 |
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