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平成16年7月10日 第440号 P3 |
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○座談会 | P1 | 横浜の空襲、そして占領の街 (1)
(2) (3) 赤塚行雄/今井清一/諸角せつ子/松信裕 |
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○特集 | P4 | チャールズ・ワーグマンが語る
横浜外国人居留地の生活 ジョゼフ・ロガラ |
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○人と作品 | P5 | 天童荒太と新「家族狩り」 |
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座談会 横浜の空襲、そして占領の街 (3)
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◇占領下、ソフトな米兵、堂々としていた日本女性 |
厚木飛行場に降りたマッカーサー (1945年8月30日) マッカーサー記念館蔵 約130KB |
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松信 |
8月30日にマッカーサーが厚木飛行場に進駐して、その日のうちに横浜のホテル・ニューグランドに入ります。 占領軍が入ってくるので、神奈川県の藤原孝夫知事が「婦女子退避令」を出しますが、諸角先生はどうされていましたか。 |
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諸角 | うちはとぼけていまして、田舎が山梨の南巨摩郡の富士川のほとりなんですが、終戦の日にそこに疎開したんです。
終戦のラジオは甲府の親戚の家で聞いて、それから田舎に行きました。 横浜は占領軍が入ってきて危ないというので一月半ぐらいそこにいました。 |
赤塚 |
一般には空襲を避けて疎開と考えますが、横浜は戦争が終わってから疎開という人がいましたね。 |
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今井 |
「婦女子退避令」は敗戦の翌日ぐらいに、市の代表も出て県庁で相談会をしたときに、占領経験のある県の部長が、早く疎開させたほうがいいと言い出して、その場で決まった。
県は藤原孝夫知事、横浜市は半井清市長がそれを信じて退避令を出すわけです。 浜口内閣の書記官長をつとめたこともある鈴木富士弥鎌倉市長は、これを抑えています。 |
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松信 |
マッカーサーが来た日に、もう強姦事件が起こっているんですね。 |
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赤塚 |
終戦連絡横浜事務局に勤めていた北林余志子さんは、「敗戦の代償としてヨコハマの女性が辱めを受けたかのような事件がたくさんあった。」と語っていますね。 |
たくさん建ちましたね。 私が通っていた女子専修は、戦後、六・三・三制の実施とともに横浜市立港高校となり、またすぐに横浜市立商業高校(Y校)に統合されて男女共学になったのですが、私は学校を卒業すると同時に学校の事務員に残らないかと言われて、Y校へ勤めるようになったんです。 私の家から南太田のY校までは、まっすぐ行けばすぐなんですが、ずっとカマボコ兵舎が建っていて通れなかったんです。 それで吉野町、前里町と、ぐるっと回ってY校へ通っていました。
それがかなり長く続きましたね。 |
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諸角 | 長者町周辺のカマボコ兵舎 (1946年) 浪江康夫氏蔵 約120KB |
松信 | ||
諸角 |
進駐軍の外国人はみんなソフトな感じでしたね。 日本人の兵隊さんのほうが、よっぽど怖かった。 |
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赤塚 |
不思議なくらい穏やかだった。 誰かがそういう方策を立てたんでしょうかね。 |
市電に乗る米兵 (1945年9月21日) 米国防総省蔵 約110KB |
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今井 |
占領するときには、どこの国でも、市街地には限定して兵隊を入れるんです。 部隊全部が飛び込むような形にはしない。 特に、いら立ってカッカしている兵隊たちは入れないのが原則なんだそうです。
南京占領の日本軍はそうじゃなかった。 |
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赤塚 |
私の家の近くの横浜専門学校は黒人部隊の宿舎になったんです。 そのコンクリートの塀に、黒人兵が赤土で“FUCK”と落書していた。 “FUCK”というのは、あのころ辞書にないと思いますが、直感でわかるんですよ。
「あんなことを書いている」と、それが非常に印象的でした。 |
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黒人兵は怖いという感じでしたが、バラの花を1本持って、「ママさんいますか」と女性を探していましたね。 |
赤塚 |
G.I.相手の露天商 横浜で (1945年9月16日) 米国防総省蔵 約130KB |
そうなんです。 それも住宅地のど真ん中にです。 GI同士や女性同士の喧嘩もあって、夜遅くまで騒いでいる。 それで父に「うるさくて勉強できない。」と言うと、私の父は新聞記者でしたが、すかさず「何を言ってるんだ。 千載一遇のチャンスではないか。 人間というものを、この際よく観察しておけ。」と言われた(笑)。 反抗期でしたが、この言葉には参りましたね。 その通りだと思いました。 それでパンパン宿の隣の少年はじっと見ていた。 あのころの小説家や随筆家たちは、こうした女性たちのことを「生活に困って」と大抵書いている。 当時の新聞や雑誌にも「多くは家を焼かれ、食うに職なく、生活に困って仕方なく」と書いてある。 |
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たしかに多くの人はそうだったんでしょうが、必ずしもそれだけじゃないと思ったんです。 性的好奇心、あるいは異国人への好奇心なども含めて、新しい時代の中で、解放感にひたりながら「新しく生きている」と感じていた人もいたのではないでしょうか。
堂々としている女の人も少なくなかったですからね。 |
◇戦中・戦後の転換を納得させた「堕落論」 |
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松信 |
市民の意識は、すぐに変わったんでしょうか。 |
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赤塚 |
徹底抗戦と言っている人も、けんかしていた手をすぐに下ろせないといった感じでしたね。 |
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今井 |
経理学校では新聞も読めず、外界から隔離されていましたが、本土決戦の想定は、昼間は米軍機がいるので、日本軍は多摩の洞窟に隠してある兵器や食糧を夜間に荷車で輸送するしかないというものでした。 それから、敗戦直前に、一期上の見習士官の教官から、日本中が新型爆弾とソ連の参戦で絶望の淵にいるのに、君たちは、このいやな学校を卒業できると喜んでいる、日本中で一番幸福だと皮肉られたのを覚えています。
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赤塚 |
先生の言うことが急に変わったのも、おかしかった。 昨日まで勇ましいことを言っていたのに、「負けるのはとっくにわかっていた。」と。 |
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諸角 |
本当にそうですね。 |
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赤塚 |
小学校の先生は、みんなと一緒に動いているというところがあったけれど、中学の先生はちょっと違った。 弁論部の生徒なんか意地悪ですから、朝礼のときなどにわざと突っ込む。
「男女同権と言うけれど先生、昨日まで、男女七歳にして席を同じゅうせずと言っていたじゃないですか。 あれと男女同権はどうつながるんでしょうか。」と言われると先生は下を向いちゃう。
誰でも困るでしょうね。 |
降伏の事実に戸惑う若者たち |
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今井 |
若者の敗戦の受け入れ方はどうだったんですか。 |
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赤塚 |
ずっと納得できないでいるんですよ。 昨日までの一生懸命の毎日と、次の降伏ということが結びつかない。 いろいろなやり方で納得させたのでしょうが、私の場合は文章を読むことでした。 21年の4月に『新潮』に坂口安吾の「堕落論」が出たんです。 戦中と戦後をどう論理的につないだらいいかわからなかったときに、これを読んで、胸がスッキリしてきた。 <人間は堕落する。 義士も聖女も堕落する。 それを防ぐことはできない。 防ぐことによって人を救うことはできない。 人間は生き、人間は堕ちる。 そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。> そうだ、天皇ももう神じゃない。 軍国の妻がきょうは性を売っている。 人間は、急にダメになったのではなく、もともとそういうものなのだ。
それを自覚し、そこからもう一回人間としてはい上がればいいんだ。 中学生としては、そういうところから考え直そうとしていた。 |
◇占領軍と交渉、難題を解決した鎌田機関 |
鎌田銓一氏 (鎌田勇氏提供) 約100KB |
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松信 |
占領のとき鎌田機関がかなり活躍したということですが。 |
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赤塚 |
占領軍接伴委員会がつくられましたが、委員長が有末精三陸軍中将で、副委員長が、同じ中将の鎌田銓一さんです。 鎌田さんはアメリカの大学を出られて、かつては米軍のフォルト・デュポン工兵連隊の大隊長だった。 それで英語ができるので引っ張り出されたんです。 先遣隊として厚木に来たテンチ大佐は、以前、鎌田さんの部下だったんです。 鎌田さんは、占領軍と具体的な交渉をするためには、第一次占領地区の横浜にいたほうがいいだろうというので、本牧に住まわれて、そこで頑張った。 |
今井 |
横浜はあまりに悲惨なので、終戦連絡横浜事務局長の鈴木九萬[ただかつ]さんも、ある程度きちんと片がつくまでは、横浜に留まろうと考えていたそうです。
他にも同じような方がおられたようです。 |
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赤塚 |
中華民国軍が中部地区に進駐するという話があったとき、中国軍は食糧その他の必需品を進駐した現地で調達する方針なのを知って、日本にはそんな余裕はとてもないので、それはやめてくれと鎌田さんが占領軍と交渉したと聞きました。 そういうふうに、陰でいろいろ動いてくれた。 どこにも文章にはなってないんですが、神奈川県庁の役人として苦労された西田喜七渉外課長が、我々の背後には彼がいて、いろいろやってくれていたという意味のことをよく言われてました。 有末機関については、いろいろ取り上げられていますけど……。 |
横浜は沖縄を除いて占領面積が一番多かった街 |
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松信 |
横浜は、沖縄を除いて一番占領の面積が多い街だったわけですね。 そういった状況が、講和条約が発効する昭和27年4月以降もずっと続いていた。 |
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今井 |
中区の真ん中辺りが解除されるのは、昭和30年ぐらいじゃないですか。 伊勢佐木町の不二家が33年。 |
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諸角 |
そのころ急速にほうぼう解除になりましたね。 |
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今井 |
有隣堂が解除されたのは何年ですか。 |
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松信 |
27年と30年、表と裏と半分ずつなんです。 |
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赤塚 |
今、大空襲直後に青木橋から見た焼け野原の方を見ると、みなとみらいの高層ビル群が立ち並んで、豊かになった。 それは結構なことなんですが、終戦直後、みんな「二度と戦争はしない」、と叫んだのに、今、また繰り返そうとしている。 私たちは戦争という闇を知っているからこそ、今の豊かな時代を輝かしいと感じられわけで、まぶしい場所にいる今の時代は、戦争の闇を想像力で補うことが必要だと思うんです。
『昭和二十年の青空』がその一助になればと思ってます。 |
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諸角 |
本当にそう思いますね。 戦後生まれの方々にも、この事実を是非知ってほしいと思っています。 平和を願うのみです。 |
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今井 |
私たちは「一億玉砕」を目の前にしました。 時の東日本の総軍司令官は、シナ事変は1か月ぐらいで片づけると天皇に言った陸軍大臣です。 歴史の皮肉は憶えておきましょう。 |
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松信 |
きょうはどうもありがとうございました。 |
赤塚行雄 (あかつか ゆきお) |
1930年横浜生れ。 著書『昭和二十年の青空』 有隣堂 1,470円(5%税込)、『人文学のプロレゴ竏茶<i』 風媒社 1,890円(5%税込)ほか。 |
今井清一 (いまい せいいち) |
1924年群馬県生れ。 著書 岩波新書『昭和史 (新版)』(共著) 岩波書店 819円(5%税込)、有隣新書『新版大空襲5月29日』 有隣堂 1,050円(5%税込)ほか。 |
諸角せつ子 (もろずみ せつこ) |
1931年横浜生れ。 |
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