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平成16年7月10日 第440号 P2 |
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○座談会 | P1 | 横浜の空襲、そして占領の街 (1)
(2) (3) 赤塚行雄/今井清一/諸角せつ子/松信裕 |
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○特集 | P4 | チャールズ・ワーグマンが語る
横浜外国人居留地の生活 ジョゼフ・ロガラ |
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○人と作品 | P5 | 天童荒太と新「家族狩り」 |
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座談会 横浜の空襲、そして占領の街 (2)
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◇軍需工場から大都市市街地攻撃に戦術が転換 |
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松信 |
日本はどういう経過で空襲を受けるようになったのでしょうか。 |
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今井 |
日本の都市は木造ですから、関東大震災の例もあるように、空襲には弱い。 しかし、アメリカの基地からは遠く離れているし、海軍もしっかりしているから、空襲されないだろうと考えていました。 いっぽう、日本は中国に対しては随分激しい都市爆撃をして、国際的な非難を受けていました。 アメリカは、当時の長距離爆撃機の2倍以上の航続距離をもつ超長距離爆撃機の開発を進め、1944年(昭和19年)初頭にB29の生産が軌道に乗ります。 これだと基地を進めると、日本も空襲できる。 同じ昭和19年の初頭に日本軍は孤立した中国を屈服させようと大陸打通[だつう]作戦を開始し、これに対してアメリカは中国奥地の成都にB29の基地をつくります。 この年6月6日に連合軍がフランスのノルマンディーに上陸します。 その15日には米軍がサイパン島に上陸し、その日の深夜には成都基地のB29が八幡製鉄所を爆撃します。 これがB29による最初の日本本土空襲で、世界戦略の一環です。 11月になるとサイパン、グアム、テニアンのマリアナ基地がつくられ、東京も爆撃圏内に入ります。 最初の目標は、日本の航空機、特に発動機工場で、東京の中島飛行機、名古屋の三菱重工を爆撃しますが、高空から、しかも冬の強風の中の爆撃は当たらない。 そこで大都市の密集市街地に対する焼夷弾攻撃に戦術転換をします。 この戦術は、実はもっと前から計画され、焼夷弾も開発されていました。 ただ大都市の目標を一気に焼くにはある程度の兵力が必要で、300機になったところで、3月10日の東京大空襲になります。 |
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赤塚 |
そのころは、横浜はまだ大きな空襲も受けてませんでしたし、不謹慎ですが、東京の空襲を見るとすごくきれいなんです。 こちらは安全だという安心感があって、夜なんか、探照灯の光芒の中に魚のように黒くB29が浮くんです。
それで高射砲がバンバンと飛ぶけれど、なかなか当たらない。 B29は悠々と飛び去っていく。 腹立つぐらい。 |
3月は下町、4月は工場周辺の市街地を爆撃 |
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今井 |
日本の大都市市街地への焼夷弾空襲は3月中旬、4月中旬、5月中旬から6月上旬の3期に分けられます。 3月中旬には東京大空襲に続いて名古屋、大阪、神戸が夜間焼夷弾空襲を受け、下町の密集市街地が焼き払われます。 そのときには横浜は目標に入っていません。 横浜にはまとまった人口密集区域がなかったためです。 4月には労働者の多い工場周辺の市街地が目標になります。 13日に東京造兵廠があった北区、板橋区から赤羽にかけて、15日は蒲田と川崎、鶴見の工業地帯の周辺です。 |
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諸角 |
15日には、私が住んでいた睦町の近くの堀ノ内の火薬庫を目がけて、空襲がありました。 今考えると、火薬庫はそのころはもう空だったんですが、これが私が最初に遭った空襲です。
堀ノ内のほうは焼けず、山を越した反対側の睦町二丁目が焼け、私の家も焼けてしまいました。 |
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赤塚 |
私がB29の残骸と米兵の死体を見たのは、このときの空襲ですね。 |
◇横浜大空襲窶柏ツ空に爆撃機の大編成 |
米国立公文書館 約160KB |
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今井 |
5月29日の横浜大空襲では丘で区切られたそれぞれの地域を焼き払うために、5つの目標地点を決めます。 第1目標が東神奈川駅、第2目標が平沼橋、第3目標が市役所のそばの港橋、第4目標はお三の宮(日枝神社)の近くの吉野橋、第5目標が本牧の大鳥国民学校でした。 海側から風が吹いてくるので、目標が煙で隠れないように一番奥の東神奈川からこの順序で、ほぼ9機4列の各編隊が輪番で、四回りほど焼夷弾を投下し、午前9時20分過ぎから1時間ちょっとで投弾を終えます。
住民に逃げる暇を与えずに焼き尽くそうとしたのです。 |
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松信 | 赤塚先生は、その日はどうされていたんですか。 |
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赤塚 |
明け方から警戒警報が鳴ったので、勤労動員へは行かず自宅にいました。 午前8時前に、けたたましい空襲警報がほうぼうから響いたんです。 ふだんは縁の下の防空壕に入るんですが、いつもとは違う、ただならぬ気配を感じて家族で横浜専門学校(現・神奈川大学)近くの高台の窪地に避難したんです。 間もなく、晴れた空に爆撃機の大編隊が現われ、まず栗田谷付近に黒煙があがり、東神奈川駅の向こう辺りが火に包まれ、横浜の中心街から立ち上った煙で空が暗くなった。 その暗い空を呆然と眺めていると、爆風で煙の中に一筋の穴が空いて、そこからのぞく青空に向かって爆撃機が飛び去って行くのが見えたんです。 私の家のあたりは、直接は大きな被害は受けませんでしたが、逃げるのに必死でした。 空襲の後、横浜駅の方から防空団員に誘導されて、女性や子供が命からがら丘を上ってくる姿が目に焼き付いてますね。 |
4月の空襲で焼かれ、引っ越した翌日にまた焼かれる |
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松信 |
諸角先生は、この空襲が二度目ですよね。 |
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諸角 |
そうです。 29日は家にいました。 4月15日の空襲で家が焼けてしまったので、近くの、人に貸していた家をあけてもらって、残った荷物を集めて越した次の日が、5月29日でした。 逃げようとしたときは、もう焼夷弾が落ちてきたので、そばの土盛りの防空壕に入ったら、その中、私のすぐ後ろに、焼夷弾が落ちてきたんです。 あわてて外に出たんですが、あちこちが燃えていて、「怖い、怖い」で夢中で走って、堀割川のそばの丘まで、靴もはかずに逃げました。 その丘も山火事になりそうだったので、母親と二人で根岸のほうまで行って、夜遅くまでそこにいたんですけれども、町内会では「あの二人は死んじゃったんじゃないか」と、一生懸命焼け跡を探してくださったそうで、怒られました。 とにかく、怖くて怖くて、遠くまで逃げたんです。 そのとき、19年に南京で戦病死した兄の遺骨が帰ってきていて、家だけででもお葬式をやろうと、父親が田舎に買い出しに行った後だったんですが、結局、お葬式もできず、家の荷物もほとんど焼けて、何にもなくなりました。 それ以後は、焼けた家の跡に、ご近所の3世帯が一緒になって、焼けトタンでバラックを建てまして、戦後しばらくまで、穴のあいた空の見える焼けトタンの中に住んでいました。 |
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松信 |
諸角先生の学校も焼けたのですか。 |
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諸角 |
いいえ。学校は焼けませんでした。 |
白い煙が上がった後、横に揺れて真っ黒い煙が |
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今井 |
私は5月29日の空襲を東京から見ました。 弘前の連隊から汽車で戻り、新大久保駅で空襲警報が出て、降りたら、先のほうに、B29の攻撃で火の手がまっすぐ、円筒状に上がっている。 最初は白い煙が上がる。 しばらくすると、中に激しい風が起きて、横に揺れて真っ黒い煙が出てくる。 最初は渋谷かと思ったんですが、はるかかなたの横浜が燃えていたわけです。 横浜の空襲は、私自身は体験はしていないけれど、遠くから見て非常に印象に残っています。 |
医者の手当てを十分受けられないまま妹が病死 |
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松信 |
赤塚先生の妹さんが6歳で亡くなられたのは、ご病気だったんですか。 |
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赤塚 |
医者の手当てを十分に受けられなかったということだったように思います。 お医者さんたちもみんな兵隊にとられていましたから。 |
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松信 |
5月29日の空襲の後ですね。 |
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赤塚 |
直後でした。父親が病院をあっちこっち連れて回ったんですが、高熱にうなされながら死んだんです。 病名も、よくわからないんです。 ちゃんとした治療を受けてないから、多分、腸チフスだろうという感じですね。 |
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松信 |
直接の戦闘や空襲以外に、病気で亡くなった方も多かったんですね。 |
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諸角 |
私の家の隣の小学生の男の子も、腹痛がひどくて「痛いよ、痛いよ」と言いながら、その晩のうちに亡くなりました。 お医者さんがいれば何でもないのにね。 |
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赤塚 |
医者さえいたらということはありましたね。 若い先生は戦地に行ってしまい、年をとったお医者さんしかいないという感じでした。 |
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今井 |
それで各地に軍医を養成する医専ができた。 横浜市立大学の医学部も、それが前身です。 |
つづく |